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M17星雲の光と影

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2006.11.09
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テーマ:本日の1冊(3683)
カテゴリ:その他
ふー、このところ、大きな仕事を控えていたので、その準備で残念ながらブログどころではなかった。でも、それも一応今日で終わり。久々に200人ほどの聴衆を前に一時間くらい話をして、お勤めはぶじ終了。正直いって体調は最悪、鼻は腫れ、声は出ず、頭はがんがん痛むという状態で、なんとかやりとげられただけでも僥倖といわねばならない。最後は聴衆からあたたかい自発的な拍手までいただいたし、今日はゆっくりやすめそうである。やれやれ。

まあ、疲れ果ててわざわざ文章を書かなくてもいいようなものだが、このところ、自らハードルを上げすぎていたようなところもあったので、今日はこれといって書くことはないのだが、なんとなく書いてみる。まあ、以前はこんな調子で書いていたんだし、もうちょっと気楽にやってもいいですよね。時折、妙に肩に力が入りすぎて自滅する傾向があるので、少し反省しております。

ずいぶん以前のブログをこのところ何点か再読し、しみじみと思うところがあった。自分の以前書いた文章を読み返すことなどまずない。そんなことおそろしくてとてもできない。でも、かれこれ一年近く文章を書き続けてきたわけで、やはりそれなりの感慨はある。

そもそも文章を書くどころか、本を読むことさえもうないだろうと思っていた時期があった。今から4年少し前のことである。突然、身体の一部が壊れた。あれよあれよという間に、その破損は次々と各所に飛び火し、気がつくと、身体全体が倒壊寸前の状態になっていた。自分の身体が壊れるなどということは経験したことも予想したこともなかったので、まるで足元からずぶずぶと地の底へ吸い込まれていくような気持ちだった。ついには頸椎にまで異常をきたし、まっすぐ頭を支えることさえできなくなった。もうこれはだめだ。正直そう思った。

十五年以上、一日の休講もなく続けてきた授業もついにできない状態になってしまった。事務室に責任者を呼び出し、事情を説明し、長年続けてきた夏期講習をもうやれなくなったと告げた時の、相手の意外な表情と、こちらの無念の思い。とぼとぼと校舎を後にして帰ったことをまるで昨日のことのように思い出す。

しかし、そういう状態にあっても、精神はなんとか正常に働いていた。支えてくれる人もいた。奇跡的に名医に出会い、ふたたびしゃばに帰ることが出来、授業も再開することができた。望外の喜びだった。でもそれ以降も首の後遺症は長く続き、下を向いて仕事をすることが苦痛でしかたなかった。仕事を終えた後に、本を読むことなど想像もできなかった。もう本を読むこともなくなるんだな。そう思った。別に悲しくもなかった。もとから本を読むことにそれほどの愛着をもっていたわけではない。読書が好きか嫌いかといわれれば、どちらかといえば嫌いだったかもしれない。そこにしか自分を受け入れてくれる世界がないから、やむをえず読んでいただけのことだ。別に本を読めなくなっても未練というほどのこともない。そう思っていた。

ただ仕事の関係上、斜め読みであっても本と縁を切るわけにはいかなかった。問題を作らなければならないので、職業上の理由で時折、本を買い、斜め読みして問題になる箇所を探した。ただ、その本を最後まで読み通すことはなかった。そこにはただ義務感と苦痛だけがあった。

ある日、問題を作らなければならない期限が迫ってきて、私は焦っていた。もう余裕がない。なんとか問題を作らねば。しかし、どうしても出典が見つからない。図書館へ行き、新宿の本屋を数軒はしごし、どうしても本が見つからず、苦し紛れに自宅近くの本屋へ立ち寄った。なにか問題の手がかりはないか。必死で探す眼の先に一冊の本があった。角川文庫版「ためらいの倫理学」。著者は内田樹と書いてある。この筆者のことは他の問題作成者の人から教えられていた。「すごく面白いですよ」。そう言われた。たしかにその文章は刺激的で、シャープで、すかっと切り口鮮やかに事象を切りとる力があった。でもしょせん今の自分には遠い存在である。それ以来、その筆者の名前も忘れていた。その著者の本が今目の前にある。わらにもすがる思いで、私はその本を求めた。こんな本を買っても最後まで読み通すことなどあるはずがないと、こころのどこかで思いながら。

結局、次の日、偶然、問題の出典は見つかり、その本は買ったまま、しばらくかばんの中にしまわれた。ある日、そのことを思い出し、出勤の電車の中で、その本を取りだした。痛む首筋を押さえながら、おそるおそるその本のページを繰り始める。

その時の驚きをなんと表現したらいいだろう。その本の活字は「立って」いた。こうあるべきだという方向に文章は自然に流れ、しかし、途中で私の予測を裏切って、論旨はあらぬ方向へと逸れていき、しかし、その流れの向こうには豊穣なる実りがあった。そういう驚きの連続であった。「わかるけれどもわからない」、「まさに自分がいいたかったことなのに、絶対に自分にはこうは書けない」。そういう文章が次々に、おそろしいほどの凝縮力でそこには展開されていた。

それから毎日毎日、まるでページをめくることを惜しむように、ていねいに、ていねいに、その本を読み進め、やがて読み終えた。そして、私はもう一度本を読む世界に戻ろうと決意した。ここにはまだ私を引きつける何かがある。そう思った。

その後、内田先生の本を読み漁るようになり、先生にメールを送り、その返事をいただいて、欣喜雀躍したこともある。先生のブログを最初から順を追って読み進め、自分の直感が正しいことを知った。そして、先生が村上春樹のファンであることも知った。しかし、その作家はしょせん私とは無縁の、遠い、遠い、単なる高名なベストセラー作家に過ぎなかった。

ある日、本屋で「村上春樹作家デビュー25周年記念」という帯の巻かれた一連の講談社文庫のシリーズを目にした。「いまさら村上春樹でもないよな」。私はそう呟きながら、そのシリーズの一冊を手にした。「風の唄を聴け」。彼のデビュー作である。文章の感触には、しかし、意外に自分に近しいものを感じた。読み終わって、新鮮で面白いとは思ったが、いまひとつ、理解できたという思いはなかった。翌月になって、そのシリーズの続編が出版され、私は「ダンス・ダンス・ダンス」という本を手に取り、その冒頭部「よくいるかホテルの夢を見る。」という一節に吸いよせられ、それから彼のほぼ全作品を読むことになる。そして、「グレート・ギャツビー」という本が彼に与えた深い影響を知る。

その時、読み進めていた彼の「カンガルー日和」の中に「5月の海岸線」という小さな作品がある。生まれ故郷の海岸沿いの街を久方ぶりに訪れ、防波堤の上を裸足で歩きながら、文章はこう綴られる。

「僕は運動靴を脱ぎ、靴下を取り、裸足になって防波堤の上を歩きつづける。ひっそりと静まりかえった午後の日差しの中に、近所の中学校のチャイムの音が響く。 
 高層住宅の群れはどこまでも続いていた。まるで巨大な火葬場のようだ。人の姿はない。生活の匂いもない。のっぺりとした道路を時折自動車が通り過ぎていくだけだ。
 僕は預言する。
 五月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。
 何年先か、何十年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち建てたものはいったい何だ?コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか。」

ここまで読み進めたとき、私は唐突にこう思った。「書かねばならない」と。え、いったい何を。「おまえは文章を書かねばならない」。なぜ、いまさら、文章などを書く必要があるのか。答えはなかった。理由もおそらくなかった。ただ、その文章を読み終えた後、私のこころの中に響いていたことば、それは「書かねばならない」。それだけだった。同じことばが何度も何度も頭のなかで鳴り響いた。

翌日、私はその作品への、そして村上春樹の諸作品への感想を、何の当てもなく、パソコンに入力しはじめた。「とりあえず10万字書こう」。こころの中の声はそう告げていた。理由も根拠も何もない。とりあえず10万字書こう。私はそう思った。

なんのあてもない放浪の旅に出たようなものである。とりあえず10万字。そのことだけを考えた。仕事が忙しく、体調もまだ万全でなく、文章を書く作業は遅々として進まなかった。その大部分は村上作品へのたわいもない感想である。ほとんど一年近くかけてやっと10万字書き終えた。しみじみと、私はその最後の文章を眺めてみた。ひょっとしたら何かが変わっているかもしれない。そういうかすかな希望を抱いて。

しかし、結局、何も変わってはいなかった。そこにはいびつにゆがんだ拙劣な文章があっただけである。「やっぱりな」という声がどこからか響いてくる。「結局、何も変わらないんだよ」。そういう声も聞こえてくる。

でも、村上作品を読みつづけた私のこころは、その声に対して自分でも驚くような返答をした。「10万字かけて何も変わらなかったとしたら、やることはひとつしかない。そう、100万字書くしかないじゃないか」

まったく驚くべき返事だった。自分のこころの中からそんな声が聞こえてくることに自分がいちばん驚いた。

「でも、その100万字には読み手の存在が必要だ。」

私のこころの声は、同時にそう告げた。私はその年の5月に気まぐれでブログを立ち上げていたことをその時思い出した。

「よし、書こう」。そう思って、読み終えたばかりの「グレート・ギャツビー」(野崎孝訳)の感想文を書き、ブログに載せた。

それがこのブログのはじまりである。

今日の昼、大きな仕事を目前にして、新宿の紀伊国屋の村上春樹のコーナーの前に立ち、きれいな化粧箱に入った美しい本を目にして、そのことを唐突に思い出した。

「グレート・ギャツビー 村上春樹訳」。

その本の背表紙にはそう書かれていた。







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Last updated  2006.11.10 09:24:42
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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