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テーマ:本日の1冊(3683)
カテゴリ:村上春樹
村上春樹訳「グレート・ギャツビー」第一章を読む。
しなやかで、なめらかで、きめの細かい、文章の背後に自然な呼吸とたえまなく働く機知と想像力を感じさせる、実にすばらしい訳文である。 原文との照合も行わずに、こんな表現をするのはあるいは乱暴と思われるかもしれない。 しかし、本当は「すばらしい訳文」ではなく、「すばらしい作品」と書きたいところを、これでも抑制しているのである。 村上訳が出るまで、この作品を読まないでおこうという読者も少なくなかったと思う。その気持ちはよくわかる。しかし、私はそういうことばを聞くと、少しだけ残念な気がしていた。 この作品には、野崎孝という信頼できる翻訳者の訳が既に存在しているからである。文学作品の翻訳家に求められる不可欠の資質、それはベースとなるべき正確な語学力を別にすれば、やはり「文体に対する正当な感覚をもっている」ということに尽きると思う。その作品全体に通底する作者の肉声(ボイス)に対する感受性と、それを自分の手持ちの文体でどう表現するかという意識の持ち方がそこでは必要となる。 野崎訳の「ギャツビー」の冒頭部を読んで、私は以上のような「文体」への意識の高さを感じた。その後、作品を読み進める上で、訳文に違和感を感じることはほとんどなかった。ただ作中で交わされる「会話の妙味」は、残念ながら十分にこちらに伝わってこないうらみがあった。とくに後半部、微妙な感情の陰翳がからまった会話のニュアンスがうまくつかみとれない。そこだけが不満といえば、不満だった。だから、村上訳に私が期待したのは、まずその点だった。 その問題はどう解決されているか?もちろん解決されています。解決されているに決まっているではないですか。どういうふうに?たとえば、こういうふうにです。 シカゴから東部に移り住んだディジーと「僕」との会話。 「私がいなくてみんな淋しがっていた?」と彼女は夢見心地で叫んだ。 「街中がまさに沈み込んでいたよ。どの自動車も葬式の花輪がわりに、左側の後輪を真っ黒に塗っていた。ノースショアーのあたりでは、夜通し苦悶の叫びが途切れなかった」 「まあ、なんて感動的なんでしょう!ねえ、シカゴに戻りましょうよ、トム。あしたにでも!」 ディジーと夫との会話。 「ほら、見て!」と彼女は文句を言った。「怪我しちゃったわ」 僕らはみんなでそこに目を向けた。指のつけねに青あざができていた。 「あなたのせいよ、トム」と彼女は咎めるように言った。「わざとやったんじゃないことはわかってるけど、でもとにかくあなたのせい。獣みたいな人と結婚すると、こういう目にもあわされるのよ。なにしろ人並みはずれてうすらでかくって、腕力のあり余った男とーー」 「うすらでかいという言葉は気にいらんな」とトムは気を悪くしたように言った。 「たとえ冗談にせよ」 「うすらでかい」とディジーはしつこく繰り返した。 仲睦まじい、ある意味では少しセクシャルな含意も感じさせるようなディジーの天真爛漫な冗談っぽい口調は、その後の展開で、もう冗談が冗談として機能しなくなりつつある二人の関係の危うさを予感させる。夫のことばを途中でさえぎり、「うすらでかい」とディジーが繰り返すところの呼吸はみごとである。ディジーの花のような性格、夫の感性の鈍さ、それを侮蔑しながらも、なお天性のあどけなさを失わないディジー。それらが何気ない平易な訳文の中に自然に表現されている。こちらの読みの深さを許し、むしろ読みの深みへといざなおうとする訳文であり、その向こうには訳者のより深い感受と読みの世界が広がっている。読みながらため息の出るような箇所である。 同じ二人の会話。有色人種の勃興に白人が脅威にさらされつつあるという怪しげな「学術書」の解説を始める夫に対して、 「トムはここのところ、なにしろ学術づいているの」とディジーは、わざとらしく哀しみの色を浮かべて言った。「長ったらしい単語の詰まった深遠な内容の本をひもといているのよ。なんていう単語だっけ、このあいだ私たちがーー」 「そういう本はどれも科学にのっとって書かれているんだよ」、いらいらした目でディジーを見やりながら、トムは言い張った。「著者はその問題を綿密に解析したんだ。注意深く見張るのは支配民族である我々の責務だ。さもなければ、どこかよその民族が支配権をさらってしまう」 「やつらを叩きのめせ」、とデイジーが、燃えさかる太陽に向かってそれらしく目配せしながら、小声で言った。 既に会話が成立しなくなりつつある二人の関係が徐々に浮かび上がってくる。最後の二行の表現も絶妙だ。さりげない、けれども容赦のない女性の側からの男性への侮蔑。それがありありと感じとれる、細かな神経の行き届いた描写である。 しかし、村上訳を読んで私が感じたのは会話の妙味だけにとどまらない。もうひとつ、フィッツジェラルドという作家の文学的想像力がほとんど自制心を失い、水量を増した奔流のようにあふれ出す瞬間を、作者は自らの想像力を駆使しながら懸命に再現しようとする。それはたとえば次のような場面である。 「芝生が海岸から始まり、玄関先まで四分の一マイルばかり続いている。それは日時計や、煉瓦の参道や、鮮烈に色づく庭を飛び越え、ようやく家にたどり着いたところで、勢い余ってそのまま明るい色合いの蔓になり、家の側面を駆け上がったかのように見える。」 一瞬にして動きを伴った鮮烈な映像が読み手のなかに浮かび上がる。息を呑むような描写力である。その作家の想像力の発動とうねりを訳文は注意深く、かつしなやかに再現する。しかも、この芝生は2ページ後の、「我々は天上の高い玄関を歩いて抜け、明るいバラ色に包まれた空間に入った。両端についたフレンチ扉によって、そこは頼りなげに母屋につながっている。開け放たれた扉は、外の瑞々しい芝生を背景に純白に輝いていた。芝生は今にも、家の中までこっそりと忍び込んできそうに見えた。」という箇所まで実に息の長い運動を続けているのである。 その後の場面では、開け放たれた扉から吹き込んでくる風がもう一方の窓から抜けるさまが、勢いよくめくれあがる白いカーテンの動きで表現され、その風に二人の女性が白ずくめのドレスをなびかせ、「係留された気球に乗ったようなかっこうで」登場する。そして、扉が閉められると同時に、「部屋の中を吹き抜けていた風はそれでぴたりとやみ、カーテンも敷物も、二人の若い女性たちも、気球が下降するみたいにしずしずと床に降りてきた。」という形で情景描写が終わり、その場にいる4人の会話によって、ストーリーが展開されていく。フィッツジェラルドの自在にして華麗な筆の運びが、やわらかでしなやかな日本語できめ細やかにすくいあげられ、描き出される。なんだかもったいなくて先を読み進むのがためらわれるような瞬間である。 しかし、第一章の白眉はやはり終結部だろう。自宅に帰った「僕」は隣家に住むギャツビーの姿を目にする。 「彼ははっとさせられるようなしぐさで、両手を暗い海に向けて差し出した。そして遠目ではあったものの、彼の身体が小刻みに震えていることがはっきりと見て取れた。僕は思わず、伸ばされた腕の先にある海上に目をやった。そこには緑の灯火がひとつ見えるきりだった。小さな遠くの光、おそらくは桟橋の先端につけられた照明だろう。それから再びギャツビー氏の方に視線を戻したとき、そこにはもう誰もいなかった。僕は騒がしい夜の闇の中に、またひとりで取り残されていた。」 これははじまりの終わりであると同時に、終わりのはじまりでもあり、また、はじまると同時に終わっている、そういう瞬間の描写である。はじまりと終わりが同時に描かれているということは、ここにはこの作品のすべてが凝縮されているということである。この第一章は同時に最終章でもあり、この作品全体でもあるのである。 ことばによる表現がことばの世界の制約を軽々と乗り越え、読み手のこころのなかに直に鮮やかなイメージを結像する。 一人の男の希望が、そしてその存在自体が、大きな闇の中に吸い込まれていく第一章の終わり。私はその後の空白のページを見つめながら、そっと本を閉じる。 もったいなくて先が読めない。後は明日だ。 こんな読書体験、いったいいつ以来だろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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