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テーマ:本日の1冊(3685)
カテゴリ:村上春樹
「グレート・ギャツビー」読了。
読み終わって、ふーと深いため息をつく。そうか、こういう作品だったのか。実をいうと野崎孝訳で以前に読んだ時、この作品には瑕疵があるのではないかと思っていた。それもストーリーの中核をなす部分で、偶然性に頼りすぎるあまり、全体の構成を損なうキズがあるのではないかという印象をもっていた。しかし、村上訳を読み終えた今、それが単なる誤解であることがわかった。瑕疵はなかった。この作品は完璧ともいえるほどのプロットをもった作品だった。後半部に感じていたもやもやとしたくもりがきれいに拭い去られて、すっきりした。そう、この作品の読後感を一言でいえば「すっきり」ということになるだろうか。 そのような読後感をもたらすのは、やはり訳文の清新さ、みずみずしさである。少なくとも私のように日本語の世界にのみ住む人間にとっては、これは新訳というよりも、新たな文学的価値の創造といったほうがふさわしい。これまでの日本語の世界には存在しなかった新たな文学作品の出現、そう考えてもいいのではないか。やはりこれは村上春樹という文学者が精魂傾けて作り上げたひとつの作品なのだ。 この作品を読み進めるなかで、以前に読んだ時には気づかなかった場面や心理描写に数多く出くわした。ほぼ一年前、他の訳であったにせよ、かなりの注意力をもって読んだはずなのに、まったく記憶に残っていない場面が、この本にはいくつも登場する。これは単なる記憶力の問題ではないだろう。二つの訳を比べれば、対応する表現は野崎訳にも存在しているはずである。しかし、その前後のイメージや文章の流れが村上訳ではきわめて自然に描き出されており、その流れが想起されてはじめて生き生きと立ち上がる場面や心情というものがあるのだ。このように作品全体を貫く大きな流れを日本語で描き出す力はほんとうにすばらしい。一文一文の妥当性だけではなく(それももちろん大切な要素ではあるのだが)、作品全体を貫く呼吸やリズムの再現に力が注がれている。そういう印象を強くもった。 さらに、作品に登場する人物像の輪郭も鮮明だ。地の文と会話が一体となって、生きた人間の姿がページから垂直に立ち上がってくる。スノッブでありながら、それを突き抜ける純粋さと情熱をもつギャツビー、可憐であでやかで奔放でありながら、身勝手で自己中心的なデイジー、傲岸不遜で繊細な感受性に欠けるトム、自己に浸りがちでシニカルなベイカー、一人一人の人物像がくっきりと浮かび上がる。しかし、村上訳で私がいちばん感心したのは、実は「僕」の造型である。以前に読んだ印象では、「僕」は語り手の役をこなしているだけの存在のように思えていたのだが、実は彼の人間像がこの作品全体にとってきわめて大きな意味をもっていることに初めて気づいた。 考えてみると、上述の四人の人物像の絡みだけでは、下手をすると安手の愛憎劇になりかねないところである。それぞれの人間像にさほどの深さはなく、ある意味では皮相で表面的な人間ということもできる。しかし、語り手の「僕」の視点が作品全体に通底することによって、そこに描き出される世界は一挙に深さと広がりを獲得する。 まるで「灰の町」に掲げられたエックルバーグ博士の巨大な目のように、「僕」の目はこの作品全体を見通している。 僕という、ある意味ではニュートラルな基準線があるからこそ、それ以外の人物のそこからの偏差が生き生きと浮かび上がってくる。そして、だからこそ、第八章の最後の部分、 握手をし、僕はそこを去った。垣根にたどり着く前に、ひとつ心にかかることがあって、僕は背後を向いた。 「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」 このせりふが痛切に胸に沁みる。そういう構造になっている。 いや引用は控えよう。きりがなくなる。 しかし、一年前に本作を読んだ時にも、第一章と最終章は特別と感じた。春樹氏の「あとがき」を読んで、その思いを共有できたことを幸せに思う。以前には最終部に強烈な印象を抱いたのだが、村上訳ではこの第九章全体から、深く静かな「音楽」が聞こえてくる。鎮魂歌、レクイエム、あるいはブルックナーのアダージョのような、痛切で悲痛で美しく哀しい楽の調べがこの章全体に響き渡っている。読後のため息は、その静かな音楽の最終音が消えた後にやってきたのである。 そして、この最終章は第一章の叙述とぴたりとモードが合っている。最後まで読んで、初めて冒頭の叙述の意味がわかる。そういうふうに仕組まれている。最終章から第一章に向けて、巨大なループが作られている。そのループを辿り、私はまた作品の冒頭に戻ってくる。 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」 何度読んでも、その度に解釈が微妙にずれてくる箇所である。すべてを読み終えて、ここに戻り、この部分に新たな光が射し込んでくるのがわかる。しかし、その光をことばでとらえることはできない。あと少しで手が届こうというところで、その指の先からするりと「何か」がすべりおちてしまう。 これはいったいどういう意味なんだろう。その意味を探るために、結局またページを繰り始めることになる。 村上訳二度目の「ギャツビー」体験は、早くも第三章の終わりに近づいている。 まるでメビウスの帯をどこまでも歩きつづける蟻にでもなったような気分だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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