かせい
家政(oikonomia) とは一種の知識 の名称であり,この知識は,それによって財を増大することのできるものであり,家(oikOS)とは財産(ktEsis)の全体のことであり,財産とは生活に有用なものであり,有用なものとは人がいかに使う(chre・stai)かを心得ているものである,… さて、この「家政」という言葉に関して、『ギリシアにおける家政学の成立と展開』というサイトから引用。先日、「家政」とは、ギリシア時代にすでにあった言葉である…という趣旨の話をされたおばちゃんがいた。 家政思想は学説として提示せられるが,し かし家政の言語的表現としては,それ以前から,あるいは学説とは別 に物語や教訓なかんずく家訓として人びとに与えられ,文芸作品や教養のための著作のなかには讃嘆すべき家政思想がときには示されている.しかしこれは家政学ではない。という文章から始まっている。まぁ…正直、このサイト上の論文だけを読んで、お話されたおばちゃんの間違い探しをしても仕方ないけど…。よくわかっていない上で、さも知っているかのように…話されるおばちゃんのお粗末さの一つではある。昔ながら…を貫き、まだ、それを全体で踏襲していくように使命を帯びて時代遅れを牽引する方であるし、その程度がなっているから…終わりしか見えないわけだけどね。お茶の水大学の家政学部の教授の文章なので、恐らく…、「家政学」ということに関して研究されているレベルはかなりの方の論文と思い読みました。家政学を考えるこんな文章もある。まぁ…私は研究しているわけではないので、どういう研究成果が国として採用されて代表者の言葉として誰の言葉が紹介されていくかは話したい人の言葉次第だとは思います。ただ、意味のない時間の無駄な中身ない話を…って思ったのでした。そして、絶対に言ってはいけないワードを言ったなぁ…。終わっているという理解ができないほどの人が国の代表している時点で、一番やってはいけないことは何かがわかっていない時点でこの人は終わっていると前も思ったけどイチゲシャンはやっぱり終わっている繰り返しで…ちた。研究しているわけではないから、私が詳しいわけがない。その上で書くならば、知っていることは…江戸末期家政学?を教授する?したのかなぁ…?それすらわからないけど、そんな明治の初期の日本をどうにかしたい…って思っていた人達をご先祖様に持って、その上でわかっていることは書けるかも。難しいことはなしで…ただ、目指したことは簡単男女平等であり、人として一人一人が幸せになることを望んでいた新政府設立等に尽力した人たちがいたということ。何故そんなことが言えるかというと、「人の上に人を作らず…」なんて書いていたとしても、実際は家柄等に執着した子どもたちのパートナー探しをしたゆきちしゃんと違うことを伝えたご先祖様たち。それを受け入れた理由もあると思いますが、本当に…今言われている「男女共同参画社会」というような名称にこだわるのではなく、実現したい社会像だったんだろう…って思います。それが実現難しい道のりで、それでも、ご先祖様たちのその思いを受け止めて、実践するのみ…実際に実行されて行かなければ意味がないんだよね。家政学という名称のもつところの話は…英語では経済のように扱われているというのも、ギリシャ時代からの流れで合っていると思います。日本でも、本当の意味で、「家政」と訳した時代の人たちの教養の高さを思います。家政学(かせいがく、Home Economics)とは、家庭生活を中心とした人間生活における人間と環境の相互作用について、人的・物的両面から、自然・社会・人文の諸科学を基盤として研究し、生活の向上とともに人類の福祉に貢献する実践的総合科学である。ウィキペディアの文章です。さて、良妻賢母養成のため家庭科の中でも手芸と裁縫教育が重要視された。家政学の本質を規定しようとする見解が芽生え、早くも家庭科教育の域を出て、「家人の監督」も含めた形で、女子の自覚と責任による家族経営の重要性が盛んに主張されたと、明治時代のこととして書かれていましたが、本当にその通りだと思います。見た目でわかることとしては、確かに裁縫と料理のことが主のようですが、実際に家族経営について、孫ひ孫…世代を超えても、見えてくる、その末裔が分れていても持つ文化があって、そこに、家政学の本質があると思います。これを思うのは、明治時代の人が姿なくとも、その方々が大切にしてきたものが伝わってきている…それを、多くの他人の家庭を知る機会を得て思ったりするのです。また、様々な長く家庭の状況がわかるような形で残っている家の話を見聞きして来ても思うのでした。私見を書くところと、書いて記録することは…。「実践性を重視し、生活に対し良い影響を与える」この言葉に尽きると思います。時代によって、求められることが異なり、家庭によって必要な知識も技術も異なる。そういう意味で、時代と共に変化していく内容であると思うのです。私の母の高校時代の制服…だけでなく、おじさんたちの制服も、祖母が縫ったと聞いています。今では考えられないことですが、NHKの朝のドラマを拝見したりしても、洋装を手に入れる手段は作るしかなかった時期のことを学ぶと、既製服を購入する手段がない時に、手に入れる手段は作る以外ない。その当時と、今を同じように見ることはできないだろうと思うので、裁縫と料理ができればいいという発想はナンセンスであり、家政学は裁縫と料理であるのような言い方をする家政学の方の言葉もナンセンスと思います。祖母のやっていたことを母などから耳にして、それらを思いながら、時代背景等を知るにつれ思うことそして、生前、母方の祖父母が母や叔母たちのことを言っていた言葉を総合するとき、今の時代に求められていることの一番大事なことを考えさせられます。経済的な視点なくして、生活に対してよい影響を与えることは…恐らく、昔からなかったと思います。モノを購入することができなかった…から、作る。作るという労働費を支払わず、原料代で済むから安くてできる。しかし、いまや、作る原料が高いかもねなんて、同じレベルのモノを作るか買うかだと、やはり、作る方が安い。人件費がかかっていないというとこと。祖母が、家のことをしてくれていた人達にどう接していたかは、昔で言う外地で暮らし、戦後に日本に戻ってきた記憶ある母の言葉から思うに、家政というのは、政であるかもなぁ…とは思ったし、商家など、多くの方々の生活を請け負っていたところの奥のこと…と言われる家のことは、やはり政だろうなぁ…と思うのです。戦後、栄養学を学んだ妻を持つことを率先してやっていた…とおっしゃっていたおじ様方の言葉を耳にした時も、なぜ?と伺ったら、やはり、経済的な視点や健康管理など…今や昔なのか…わかりませんが、今は「学部横断的」なる表現をして、家政学と同じような学び方を進めることのできる学科づくりをしている大学が増えていると思うこともありですが、要は…今の時代、いろんな知識・技術を実践できるレベルで総合的に学べることが大事だという意味では…家政学は先鋭的ですよね。ポンペイの遺跡から学ぶことはいろいろとあると思いますが、私がローマから学ぶことの一つは、今の時代に通じることがたくさんあるなぁ…ということ。実践が調理や裁縫のみで、実習という言葉が調理実習しか指さないような学び方をしたかわいそうな方々をまだまだ排出する話を耳にしますが、本当に大切なのは、生活全て消費することになっている今は、お金をどのように配分して使うことがいいかを現在と未来を考えて実践できること…かつての日本では当然学んでいたことが欠けてしまっているところが格差を作っているとは思います。二世はよっぽどよく教育しなければ、家を潰す…100年以上続けている会社や家の一番大切なポイントは、家訓など教育だったと思いますし、それも家政だろうと思うのでした。まぁ…あくまでも私見。ただ、帝王学なる言葉などを耳にしたり、いろいろと学んだりして、思うことは、家で本質的に大切なことを学ぶことができたか否かは、資産として大きいなぁ…って思います。それは、男女問わず…。「当たり前」や「普通」と言っている中身の質が違うから、ヨーロッパなどでは、有名なブランドは貴族などの子息を雇う…などいうのも、幼少より学んできていることがあるという意味では納得ですよね。そんなことを踏まえて、日本にはないモノだったからこそ、明治時代必死に学ぶ機会を広めた…という意味では、日本は形骸化せずに学べると、全ての人にとって素晴らしい結果を手にするチャンスを得られるように仕組まれていた教育があると思わされますね。ただ、形式的に学ぶと窮屈感が強く、捨てちゃった…のかなぁ…経済的に失墜していく一つの理由はそこにあると思っています。形ばかりを大切にして伝えたわけではないと思いますが、「なぜそうしているのか」という理由や背景を知らないことによって失われていったところの知識・技術の恩恵も失われて行っているなぁ…とは思います。これからどうなるか?格差は広まるでしょうねぇ…