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2018.06.04
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カール・マルクス;ヨハネ15:1~14

キリストと信徒との結合の根底と本質を試論する前に、この結合が人間にとって必要か、
人によって決定されるものか否か、人が自分自身で達成できる目的かを考えなければならない。それは神の無からの創造の目的だからである。。
人類の偉大な教師である歴史に目を向けると文明の最高レベルに到達したとき、
偉人が生まれたとき、芸術が輝きをもって花咲いたとき、科学が最大の難問を解決したとき、それにもかかわらず、迷信の束縛から逃れえないないことを誰もが自覚する。
迷信自体、神的価値あるいは真の価値ある概念を想像してなく、その道徳と倫理、耳障りな制限をうけた混合物から解放されることは決してなかった。
迷信の美徳とは粗雑な偉大さ、無慈悲なエゴイズム、名声の欲望を得ることである。
そして、キリストの教えをまだ聞くことのない古代の民族、野蛮人は、内なる不安、彼らの神の怒りに対する恐怖、自分の罪の内なる確信から彼らの神に犠牲をあげ、犠牲によって彼らの罪を償ったことが想像しえる。
確かに、古代最大の神的なプラトンの叡知は、真理と光の獲得を不十分ながら完成する、より高い存在のための深い憧れる一節を現している。
したがって、歴史の人々は、キリストとの結合の必要性を私たちに教えている。
また、私たちが個々の歴史を考えるとき、人間の本質を考えるとき、我々は常に自分の胸に神の輝き、良いものに対する情熱、知識の獲得、真実に対する憧れを見い出すのは事実である。 しかし、永遠なるものへの閃きは欲望の炎によって消される。 美徳の熱意は、魅惑的な罪の声に溺れ、我々の生命は圧倒的な力で嘲笑される。
 つまり、知識のための努力は世俗的な物のために努力する根底に取って代わられ、真理のための憧れは甘い嘘の力によってかき消され、 そして、その目的を果たさない唯一の性質を持つ唯一の人間、それを創造した神にふさわしくない創造全体の唯一の構成員である人間をとする。 しかし、その良心的な創造主は彼の働きを憎むことができなかった。 創造主は永遠なるものを人間に与えたいと思った。彼は我々
に告知した彼の息子を送った。
 
"あなたがたは、わたしがあなたに語った言葉
によって聖いものです"(ヨハネ15:3)。
「わたしの中に、あなたの中にいます」
(ヨハネ15:4)。
 このようにして人々の歴史と個人の考察がキリストとの結合(神学的には一体性ともいう)の必要性を証明したことを鑑み、最後にキリスト自身の言葉から確かな証拠を見てみよう。
彼は、葡萄の木と枝の美しい寓話よりも、自分自身と結合の必要性をより明確に表現しているが、彼は自分自身を葡萄の木、我々を枝と呼んでいる。 枝はそれ自身では実を結ぶことができないので、キリストは、私がなければ何もすることができないと語る。 彼は次のように言ってこれをさらに強く表現した。
 "人が私の中にいないならば"など
(ヨハネ15:4,5,6)
 
しかし、これは、キリストの言葉を学ぶこと
ができた人々にのみ適用されると理解しなければならない。キリスト教徒以外の民や個人に関する神の決定は、我々がそれを把握することさえできないので、判断できないからである。
 
ですから、我々の心、理性、歴史、キリストの言葉は、我々に彼と一緒に組むことが絶対に不可欠であること、我々の目標を達成できないということ、そしてキリストなしでは、贖われないことを示す。
 
したがって、この結合は絶対不可欠であるという確信が浸透しており、この高貴な贈り物が、より高次の世界から出て我々の心を活性化させることが成り立つ内在的性質と根拠があります。
我々がこのつながりの必要性を理解すると、それの基盤 (つまり、贖いの必要性、罪への傾向、揺らぐ理由、腐敗した心、神の視線における不義 )が明確になる。
それが何であるかをさらに探究する必要がある。
しかし、誰がこの結合の性質を、葡萄の木と枝の寓話でキリストよりも美しく表現することができるだろうか?
誰の論文が我々の目の前で、すべての部分でこの結合の最も内側の根底を、キリストの言葉で包括的にあらわににすることができるだろうか。
 
「わたしは真のぶどうの木、父は農夫です」(ヨハネ15:1)。
"わたしはぶどうの木、あなた方は枝です。“
 もし、枝が感覚を持っていれば、それを養生する農夫を見て喜びを感じる。農夫は葡萄の木から雑草を慎重に取り除いて、栄養を与え、より美しい花を咲かせる。
したがって、キリストとの結合のおかげで、我々は視線を愛を持ってを神に向け、最も強く感謝念を神に持ち、彼の膝の上に気持良くもたれる。
それで、キリストとの結合によって、より美
しい太陽が我々のために上がった時、我々は自らの不義を感じると同時に、自分らの贖いの喜びを得、以前は我々に無法者として現れた神を愛することができる。 今や赦しの父、親切な先生として現れるのである。
 しかし、そう感じられるならば、枝は農夫を上目遣いで見上げるだけでなく、また、ぶどう畑に抱かれるだけでなく、農夫と最も密接に結合していると感じるであろう。
 農夫がそれらに服従し、葡萄の木が枝に力を与えるので、他の枝も愛するであろう。
このように、キリストとの結合は、彼との最も親密な、最も重要な交わりであり、我々
の目と心にキリストを抱けば、彼に最大の愛を込めると同時に兄弟にも向けるようになる。
 キリストは我々に密着しており、全ての人に彼は自分自身を犠牲にした。
しかし、このキリストに対する愛は不毛ではなく、純粋な敬意と敬意をもって我々を
満たしているだけでなく、互いを犠牲にして、徳を伴い忠実にキリストの戒めを守る
ようにもなる。 
(ヨハネ15:9,10,12,14.)
 これはキリスト教の美徳を他のものから切り離し、美徳を他のものの上に浮かべる大きな
深淵である。これは、キリストとの結合が人に与える最大の影響の一つである。
徳は、もはや禁欲の哲学によって描かれたような、暗くゆがんだ姿ではない。我々がすべての異邦人の間に見い出すような義務的なものではなく、神の愛によって達成され、この純粋な源から地上でわきい出る。
反抗的な側面は全て消え、土地はすべて耕作されて全てはなだらかにされ、美徳はすぐに穏やかでより人間になったことが鮮明になる。
人間の理性によってこのように描かれたことはなかった。その美徳は常に限られた現実の美徳にとどまるのである。
 
人間がこの美徳、すなわちキリストとの結合を達成すると、彼は落ち着いて静かに運命の嵐を待つだろうし、情熱の嵐に勇敢に立ち向かう、誰が彼の救い主から引き離せるだろうか。
 彼は、救い主自身が宣言したこの保証によって、神が唯一のものであること、そして抱き上げられ慰められることが実現する事を知っている。(ヨハネ15:7)
 喜んで苦しむ人はいません。キリストに付いて、自分の労作によって、神自身が栄光を得
ることを知っている。創造の主は高くされる。
 (ヨハネ15:8)
したがって、キリストとの結合は、野心のためでも名声を得るためでもなく、内なる高揚、苦しみの慰め、落ち着いた保証、人を愛するために開かれた心、高貴なすべて、偉大なもの、キリストのためだけなされる。したがって、キリストとの結合は、我々に喜びを与える。その喜びはエピキュリアンが浅はかな哲学やあるいは最も隠された知識の思想家から虚しく引き出した喜びであり(なく?)、子供のような心を持つだけで、キリストと彼を通して神につながり、人生
をより高く美しくするものである。
(ヨハネ15:11)
***
マルクスのギムナジウムの試験解答で、達筆、悪筆らしい。間違いとおもわれるものは()内に捕捉をした。





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最終更新日  2018.06.04 07:17:20
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Re:マルクスによるヨハネ福音書15:1~14注解(06/04)   NTL さん
僅かな差違はあるが、基本は伝統的な解釈である。 (2018.06.04 01:31:31)

Re:マルクスによるヨハネ福音書15:1~14注解(06/04)   NTL さん
最近の映画「マルクス・エンゲルス」(原題は「若き日のマルクス」)の中に、マルクスが母親から「こら、娼婦や共産主義者とばかり付き合って」と怒られる場面があるのだが、やはり、エンゲルスの影響が大きい。? (2018.06.04 01:40:47)

Re:マルクスによるヨハネ福音書15:1~14注解(06/04)   NTL さん


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