500.海軍大学校首席列伝(40)状況判断は甘かった。もっと密度の濃い索敵をすべきだった
(カモメ)藤村義一少佐は昭和十八年十一月中佐。昭和十九年六月在フランス大使館附武官補佐官、十月在ドイツ大使館附武官補佐官を兼務。昭和二十年三月連合軍侵攻によるベルリンの戦いを前にして、スイスへ移駐。スイス公使館海軍顧問・西原市郎大佐の補佐官に就任。(ウツボ)昭和二十年五月頃から、藤村中佐は、アメリカの情報機関(OSS)のヨーロッパ責任者であるアレン。ウェルシュ・ダレスを相手に対米和平・終戦工作を行う。(カモメ)昭和二十一年三月予備役。昭和二十三年四月商社「ジュピターコーポレーション」を創業、社長に就任。後に防衛産業にも参入。(ウツボ)スイス公使館の藤村中佐が戦争末期に和平工作を行ったことは、昭和二十六年、雑誌「文藝春秋」に「痛恨!ダレス第一電」と題した手記を発表したことにより世に知られることになった。(カモメ)スイスの藤村中佐がダレスとの和平工作を昭和二十年五月八日に、東京の海軍省に最初の電報を打った。以後も何回も海軍省に対して、説得する電報を打ったが、海軍省は「この件は公使などと連携して現地で善処されたい」と、乗る気はなかったのです。(ウツボ)これにより、藤村中佐の提案は「幻の平和工作」に終わったが、戦後、注目され、出版物やテレビ放送などで、取り上げられた。【甲種三八期首席・山口史郎中佐(海兵五六)】(カモメ)次は、甲種三八期首席・山口史郎(やまぐち・しろう)中佐ですね。海軍大学校甲種三八期は昭和十五年四月二十四日入学、昭和十七年十二月一日~昭和十八年六月二日卒業。卒業者数二十七名。鈴木英中佐、島田航一中佐、藤森康男中佐、大谷藤之助中佐、岡本功中佐などがいます。(ウツボ)山口史郎は、広島一中から、海軍兵学校に入校。昭和三年三月十六日海軍兵学校(五六期)を卒業。昭和十一年二月六日戦艦「榛名」第六分隊長(大尉)。(カモメ)昭和十五年四月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十七年十二月一日~昭和十八年六月二日海軍大学校(三八期)を首席で卒業。昭和二十年軍令部部員(中佐)。【甲種三九期首席・吉岡忠一中佐(海兵五七)】(ウツボ)次は、甲種三九期首席・吉岡忠一(よしおか・ただかず)中佐だ。海軍大学校甲種三九期は昭和十八年七月一日入学、昭和十九年三月四日卒業。卒業者数二十五名。久住忠男中佐、小野田寛治郎大佐、宮本鷹雄中佐、山本繁一中佐、石黒進中佐、井筒紋四郎中佐、畑野健二中佐、鳥巣建之助中佐、千早正隆中佐などがいる。(カモメ)吉岡忠一中佐は明治四十一年五月十四日生まれ。静岡県浜松市出身。後に吉岡保貞海軍機関中将の養子になりました。(ウツボ)吉岡忠一中佐の兄は、大杉守一(おおすぎ・もりかず)海軍中将(静岡・海兵四一・海大二五・第三戦隊参謀・大佐・東京通信隊司令・戦艦「金剛」艦長・青島警備隊司令・海軍兵学校教頭・少将・第一〇戦隊司令官・第二三特別根拠地隊司令官・中将・捕虜虐待事件で刑死)だ。(カモメ)吉岡忠一は、大正十五年四月九日海軍兵学校に入校。昭和四年三月二十七日海軍兵学校(五七期・恩賜)を卒業。昭和十六年九月第一航空艦隊航空乙参謀、十二月真珠湾攻撃に参加。(ウツボ)真珠湾攻撃で第二次攻撃を行わなかった理由について、「丸」一九九五年二月号で吉岡忠一元海軍中佐は次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「敵空母の位置が不明であることに対して、味方の位置は敵に知られていた。しかも、その日の攻撃は時間的に不可能で、再攻撃は翌日でなければできなかった。こうした状況で第二次攻撃を実施すれば、ミッドウェー海戦のような悲劇が起きていたかもしれない」。(ウツボ)昭和十七年六月ミッドウェー海戦に参加。開戦当日、索敵計画は吉岡少佐が立案したが、敵機動部隊の発見が遅れ、敗北の一因となった。(カモメ)戦後吉岡は「当時作戦中に敵艦隊が出現することはほとんど考えていなかった。そのため索敵は厳重にすることは分っていたが、索敵には艦攻を使用しなければならなかったが、攻撃兵力が減るので、惜しくて使わなかった。状況判断は甘かった。もっと密度の濃い索敵をすべきだった」と述べています。(ウツボ)昭和十七年七月十四日第三艦隊参謀、ミッドウェー海戦の戦闘詳報を作成。十一月十五日横須賀航空隊飛行隊長。(カモメ)吉岡少佐は、昭和十八年七月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十九年三月海軍大学校(三九期)を首席で卒業、第二六航空戦隊首席参謀、七月第一航空艦隊参謀を兼務、十月中佐。昭和二十年一月横須賀鎮守府附、八月十五日ルソン島で捕虜として終戦を迎えました。(ウツボ)戦後、昭和二十六年二月、吉岡は兵庫県神戸市で、吉岡商会(工具・鋼材の販売)を創業した。吉岡商会は昭和三十一年八月に吉岡興業株式会社となり発展した。平成十二年死去。享年九十二歳。(カモメ)海軍大学校は、三九期を最後に、その後は新たに学生を募集せず、昭和二十年五月以降は海軍大学校としての機能を失ったのです。終戦後、海軍大学校は廃止され、建物は国立予防衛生研究所として使用されました。(ウツボ)なお、海軍大学校の旧蔵書のうち約八千冊が、広島県呉市にある海上保安大学校の図書館に「旧海軍大学校図書」として保存されている。(今回で「海軍大学校首席列伝」は終わりです。次回からは「陸軍大将異聞」が始まります)