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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2015.10.09
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【甲種三三期首席・樋端久利雄大佐(海兵五一)】

(カモメ)次は、甲種三三期首席・樋端久利雄(といばた・くりお)大佐ですね。海軍大学校甲種三三期は昭和八年十二月一日入学、昭和十年十一月二十六日卒業。卒業者数二十四名。渓口泰磨大佐、榎尾義男大佐、三代辰吉(一就)大佐、井浦祥二郎大佐などがいます。

(ウツボ)樋端久利雄は明治三十六年八月一日生まれ。香川県白鳥本町出身。農業・樋端荒吉の三男。香川県立大川中学校から、大正九年八月二十六日海軍兵学校入校。大正十二年七月十四日海軍兵学校(五一期)を首席で卒業。

(カモメ)海軍兵学校では、樋端生徒は、前後数クラスの中でも抜群の成績で、将来を嘱望された大秀才でしたね。だが、不思議なことに、人柄は、天才的ではなく、鋭敏さも感じられず、体力も優れてはいなかったということです。

(ウツボ)そうだね。一風変わった人物で、彼が思考に集中している時は、口元が締まらず、ぼんやりしているように見えたという。当時の写真も見たが、秀才的な洗練された風貌ではないし、スポーツ選手のような感じでもない。ところが、全校生徒が参加した弥山登山競技では一位になった。

(カモメ)海軍兵学校卒業後、少尉候補生として練習艦「磐手」乗組。大正十二年十二月少尉、戦艦「長門」乗組。大正十五年九月第一五期飛行学生、横須賀航空隊附。その後、水上機母艦「能登呂」乗組、霞ヶ浦教官を歴任。

(ウツボ)昭和四年在フランス大使館附武官補佐官。軍令部附国際連盟代表随員として、ジュネーヴ軍縮会議に同行。昭和七年横須賀航空隊分隊長。樋端大尉の考案した九二式爆撃照準器が採用される。

(カモメ)昭和十年十一月海軍大学校(三三期)を首席で卒業。海軍大学校在校中から、樋端少佐は空母の飛行機は集団として独立させて作戦に使用し攻撃力を発揮させるべきであると主張していたのですね。

(ウツボ)そうだね。当時海軍大学校教官だった小沢治三郎(おざわ・じざぶろう)大佐(宮崎・海兵三七・海大一九・水雷学校教官・砲術学校教官・航海学校教官・欧米出張・大佐・第四駆逐隊司令・海軍大学校教官・陸軍大学校教官・戦艦「榛名」艦長・少将・海軍大学校教官・連合艦隊参謀長・水雷学校校長・第一航空戦隊司令官・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・南遣艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・第一機動艦隊司令洋館・軍令部次長・連合艦隊司令長官・海上護衛隊司令長官)は次のように述べている。

(カモメ)読んでみます。「俺に航空戦術を教えてくれたのは、山岡三子夫、樋端久利雄、木田達彦だ」。樋端少佐は、当時から航空戦略の構想に優れたものがあったのですね。

(ウツボ)海軍大学校卒業後、軍令部第一部第一課部員、支那方面艦隊兼第三艦隊参謀。兼中支那派遣軍参謀。誤爆によるパネー号事件が起きる。

(カモメ)重慶爆撃では、敵が迎撃するのに対して、敵戦闘機の燃料が途切れるまで待って爆撃を開始するという「樋端ターン戦法」で、戦果を上げ、新聞でも取り上げられました。

(ウツボ)樋端少佐は、昭和十三年十二月連合艦隊参謀に補された。当時の連合艦隊司令長官は吉田善吾(よしだ・ぜんご)中将(佐賀・海兵三二・十二番・海大一三・教育局第二課長・大佐・軍務局第一課長・戦艦「陸奥」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・支那方面艦隊司令長官・海軍大学校校長・横須賀鎮守府司令長官)だった。

(カモメ)部下の作成した書類を細かく訂正することで知られた連合艦隊の吉田善吾司令長官も、樋端少佐の作成したものを訂正することはほとんどなかったということです。

(ウツボ)昭和十四年中佐に進級、第一五海軍航空隊飛行長。昭和十五年十一月海軍省軍務局第一課A局員。昭和十七年十一月連合艦隊甲航空参謀。

(カモメ)昭和十八年四月十八日、樋端中佐は、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の一式陸攻での前線視察に随行し、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され、山本長官とともに戦死、海軍大佐に特別進級しました。享年三十九歳でした。

(ウツボ)樋端中佐の戦死の報を聞いた若手将校たちは「長官の代わりはいるが、樋端中佐の代わりの人材はいない。日本海海戦の秋山真之参謀に匹敵する逸材を失った損失はあまりに大きい」との声が上がった。

(カモメ)また、真珠湾攻撃で航空参謀だった源田実(海兵五二・海大三五次席・大佐・戦後航空幕僚長・参議院議員)は、樋端大佐について、戦後、次の様に言っていました。

(ウツボ)読んでみよう。「樋端大佐に全海軍の作戦を預けて存分にその明快極まる脳味噌を働かせてもらいたかった。この人がもっと永く生き残り、もっと働ける立場にあったならば、太平洋戦争の様相はもっと変わっていたかもしれない」。

【甲種三四期首席・豊田隈雄大佐(海兵五一)】

(カモメ)次は、甲種三四期首席・豊田隈雄(とよだ・くまお)大佐ですね。海軍大学校甲種三四期は昭和九年十一月一日入学、昭和十一年十一月二十六日卒業。卒業者数三十名。大井篤大佐、山田盛重大佐、実松譲大佐、高松宮宣仁親王・大佐、内田成志大佐、堤正之少佐などがいますね。

(ウツボ)豊田隈雄は明治三十四年十二月十三日生まれ。大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校から、大正九年八月二十六日海軍兵学校入校。大正十二年七月十四日海軍兵学校(五一期・八十四番)を卒業、少尉候補生、練習艦「浅間」乗組、遠洋航海。

(カモメ)大正十三年十二月少尉。大正十五年十二月中尉。昭和二年三月霞ヶ浦海軍航空隊飛行学校偵察科第五期学生、十一月同飛行学校優等卒業、十二月空母「鳳翔」乗組。昭和三年十二月大尉。昭和四年十二月霞ヶ浦海軍航空隊飛行教官。










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最終更新日  2015.10.15 16:53:59


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