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カテゴリ:日記のようなもの
フジTVでやってるキムタク主演のドラマ『CHANGE』を毎週見てるのですが、今日は印象に残った場面がありました。
それは、TVドラマという放送物の中で、主人公に「相手と自分は違う」と言わせた場面です。 同じ人間だと思うから、(その考えを相手に暗に押し付けるから)その期待が裏切られたと思った時にトラブルが起きる。 でも同じ人間なんていない。みんな考え方も事情も違う。自分と相手は違うと理解する。 その上で、どんな言葉を使えば相手に伝わるのか、どうすれば相手を説得できるのか、考えようと。 そのシーンの冒頭で、 「自分の言いたいことを言い、相手の言いたいことも聞けば・・・」 「分かりあえる」(秘書官の一人) 「いいえ」 と否定させてました。 それで初めて相手と自分は違うんだと気付ける、と。 当たり前の話なんですけどね。 相手と自分は違うんだと気付く事。 これがコミュニケーションの始まりなんだと。 でも、相手の言いたい事が、伝えたい事が、言葉で伝わってくるとは限りません。 トラックで突っ込んできて刃物をかざした相手に向って、 「話し合おう!」 なんて言うのは無駄だし、漫画の中でしか有り得ない場面でしょう。 まさに、自分と相手は違う。 理解し合える事もあるだろうけれども、し合えない事もある。 その典型例だと思います。 モラルの低下とか刃物の規制とか、そんなとこに根本の原因があるとは思えません。 生き続けたいと思う人ばかりじゃないんです。 命の尊厳が何よりも大事だなんて思う人ばかりじゃないんです。 死にたいという望みが生きたいという望みよりも強い人だっているんです。 どっちが間違っててどっちが正しいとかいう問題じゃないんです。(*1) 自分達とは違う意見の存在を認めることが、最初の一歩です。 その存在を否定してしまうから、自分を殺すために(死刑になるために)、他人を殺すという回り道を選ぶ人達もいるのです。 もちろん、精神的な支援だとか、経済的な補助だとかで、世の中の"多数派の人達"と同じ様に生きていける人達もいるでしょう。 その意義を否定するわけではありませんが、厳然として、それらの支援や自助努力では救えない人達が世の中にはたくさんいるのも事実です。 介護疲れで肉親を殺して、自分まで殺してしまう人達もいます。 本心では、死にたくなかったかも知れません。 相手を殺したくなかったかも知れません。 自分と家族の行く末に絶望して一家心中してしまうことも昔からありました。 自分では育てられないと判断した子供を妊娠中に堕ろしたり、生まれた子供を遺棄してしまうのも同様です。 私達が認めなくてはいけないのは、命の重さは人によって変わるという事実です。 考えなくてはいけないのは、それぞれが置かれた事情によって、命に対する考えも行動も違ってくるという現実です。 何よりも大事なのが、これを善悪の問題と捉えるべきではないということです。(*2) ホスピタルとホスピスでは、それぞれに目的と機能が違います。 私達に必要とされているのは、死にたいと思っている人達の気持ちや境遇を頭ごなしに否定しないこと。 社会的なカウンセリングや経済的なセーフティーネット等(*3)で立ち直れる人達は、既存の体制やNPOやNGOでも助けられるかも知れません。 けれども、特に自分以外の誰かを巻き込んでまで死にたいと思っている人達をちゃんと受け止め、その望みを叶えてあげることは、別に命の尊厳を軽視しているわけでもなく、その人の命の尊厳と今回の様に巻き込まれて亡くなられた方々の命の尊厳の両方を守ることにつながるのではないかと、私は思います。 人は生きる権利だけでなく、死ぬ権利を持っているのです。 私達は今、その片方だけが正しいと信じ、もう片方を否定しています。 高齢化社会はまだまだ続き、自分の人生がいつ終わるのか、望む形で終われるのか不安に感じている人の数は、決して少なくないでしょう。 生きたいように生きられないことは悲劇でしょう。 しかし、死にたいように死ねないということは、なぜ悲劇でないのでしょうか? いたずらに自殺を美化するつもりは毛頭ありません。 しかしながら、単なる自殺で済むかも知れなかったものに他人が巻き込まれて死ぬことは、やはり悲劇なのです。 死ぬ権利=自分を殺す権利。 言葉の響きは美しくもなく、道徳的でないかのように思われるかも知れません。 けれども私達が今何よりも向き合わなくてはいけないことの一つだと思います。 *1 とにかく誰かを傷つけたい、殺したいという人達もいるでしょうが、これは今回の議論の範疇から外します。あえて言うなら「他人を殺す権利」を主張する人々ですが、社会的な枠組みが成立するのは、この権利をお互いに放棄しあうからです。日本の報道などは、道徳的な観念論ばかりが偏重され、社会契約的な考え方は軽んじられている様に感じてます。 *2 例えば介護の疲れの果てに他殺や自殺や心中に及ぶケースの根本的な解決策というのは、介護を継続できなくなった主体(家族)から被介護対象を切り離す事です。外部の介護サービスを頼んだり老人ホームなどに入れるお金も無いという経済的/体制的な問題が原因です。年金を受給していた両親の死(や死体)を秘匿して年金を受け取り続けるというのも同じ問題に根ざしているとも言えます。親の世話は子供が見るべきというモラルの問題では無くなっているのですが、それを認めない社会的な風潮が引き起こしている悲劇でしょう。 *3 経済・雇用・賃金情勢等が違って、今回の事件を起こした人の人生が違っていれば、このような結末にたどり着かなかった可能性は充分考えられます。けれども、どれだけ経済的に裕福で家族環境等に恵まれているように見えている人達でも、DVや殺人事件等を起こすこともまた、昔から起きていることに過ぎません。 おまけ:「(社会的な)モラルの低下」という言葉に関して モラル=道徳という意味ではなく、モラル=士気(生きようとする意思・意欲)が高度成長期に比べて落ちているかも知れないというのであれば、私は同調するかも知れません。その場合問題とされるのは、何がモラル=士気の低下を招いたか、という原因です。 それは「竹やりでB29を落とせる!」という類の精神論とは決して相容れない物であることは強調しておきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.10 00:53:26
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