コソボ独立
旧ユーゴ・スラビアのコソボが一方的ではありますが、セルビアから独立を宣言したのだそうです(こちらを参照)。独立を勝ち取ると言うと喜ばしいようにも聞こえますが、小国にどんどん分かれていくことが果たして良いことなのでしょうか?日本では、行政負担を軽くするために地方自治体同志の合併が進んでいます。コソボもアルバニアもセルビアもいずれはEUとして再度まとまるだろうと思うので、小さく細切れになってしまうことの弊害はないのかも知れませんけれども。オスマン・トルコなどの支配を長年受けていたセルビア人が、第二次大戦後にやっと勝ち取った自治権だったのですが、チトー以後、コソボに住むアルバニア人への配慮を欠いてしまったのでしょうか?国内に存在する少数派への配慮を欠いて、多数派の論理を押しつけるようなことをやると、少数派が、それなら自分たちだけで独立して、自治でやっていこうという考えになっていくと思います。独立を宣言したコソボ政府が、コソボの中では少数派になってしまうセルビア語を使って「少数派の権利を保障する」と呼びかけたそうです。できる限り大きくまとまっていくためには、少数派への配慮が欠かせないのです。日本でも、多数派が少数派の意向を無視する、ということが平然と行われます。当ブログで何度も書いてきましたが、よく見ていると少なからずやりにくそうにしている人がいるのに、日本では、パソコンや駅の改札口を右利き専用で作るということを当たり前にやって、しかも、右利きの人は全く痛みを感じてくれません。「君が代」にはいろいろな感情を抱く人がいるのに、いたわり合って国民がまとまって欲しいと言っている天皇陛下の気持ちに踏みにじって、「君が代」を強制し、「君が代」を歌わない先生は処分する、ということまでやる教育委員会があります。米軍基地の大半を沖縄に押しつけておきながら、沖縄で反基地運動が高まると、地域エゴだ、というような声が出てきます。反基地は地域エゴだ、とか、第2次大戦での沖縄戦集団自決に日本軍の強制は無かった、というような声が出てくれば、それなら、沖縄だけで独立して、上海文化圏としてやっていく方がマシだ、などということにもなりかねません。それが、「コソボ独立」のような気がします。多数派が多数派の価値観を少数派に押しつける、という思惑は、絶対にうまくいきません。力づくで押しつけても、その力を上回るような怨念を少数派の胸の中に植え付けてしまうのです。この怨念が膨らんでいけば、分離独立志向へとつながり、果てしない不幸を招くのです。非難されるべきは、この世の中には多様な価値観があるということを認めようとせず、単一価値観で染め上げるべきだ、という価値観です。戦前日本を覆っていた「単一価値観」は、多様な価値観の中の一つの価値観にはなり得ません。日本人が全て一色に染まっていることが「美しい国」だという考え方には、断固として闘うべきなのです。----------------理工系受験生向け大学入試問題研究サイトはこちら大学入試問題検討ブログはこちら----------------応援、激励、賛同のコメントはこちらへお願いします。