午後1時半から4時過ぎまで民生委員の高齢者部会の認知症サポート研修。
毎度のことながら、この研修会の私にとってはピンボケな内容にはうんざりしている。
包括支援センターが講師を務め、講義内容をプログラミングしている。何がピンボケかというと、少なくとも私が民生委員として対応している実情には合わないないからだ。あまりにも合わなさ過ぎるからだ。このことは数ヶ月前にもこのブログに書いた。
練習問題を提示し、あるいはロールプレイをして、我々に紋切り型の答を求めて、いったい何になる。私が対処した現実に、そのような紋切り型の答で解決するような事例は一件もない。しかも、民生委員は場合によって包括支援センターより一段早い段階で患者さんやそのご家族と接触する。相談や支援をもとめられる事もあれば、周囲から情報を寄せられることもある。その点が一般の方々とおおきく異なるところなのだ。
私たち民生委員は、すでにある程度の心構えはできているし、患者さんやご家族を傷つけることがないよう、自分の顔の表情をおだやかに制禦し、身体行動もおだやかに保つ---それは銘々の自主的な訓練や人生経験に因るものだとしても---心がけができている。
また、私たちが就任して最初に受ける研修のなかに、「傾聴」ということがある。自分が喋るのではなく、相談者や苦しんでいる人の言うことにじっと耳を傾ける---とことん聞き役に徹することを問題解決の第一歩とすることだ。
したがって、民生委員にとっての認知症サポート研修というのは、包括支援センター職員が認識していることより、もっと現場に近づいている講義こそが役立つのであって、私たちからお利口さんな答をもとめるような内容では、私にしてみれば私のリソース(資源である時間)を蹂躙されたと思うほかないのだ。困ったことに、紋切り型の答をもとめる人はそれが無意味だということに気がつかない。へらへら笑って、他人の人生の時間をムダに使わせていると思う想像力に欠ける。
民生・児童委員に就任してあらためて気がついたが、たとえば学校における子供達のことばが、ほとんど紋切り型なのだ。
「みんなを笑顔にするような看護士になりたい」とか、「みんなを笑顔にするようなアニメデザイナーになりたい」とか、「世界で活躍するサッカー選手になって、みんなに笑顔をとどけたいです」等々。
子供の将来の夢にはその時々の世相が反映しているし、こちらも子供らしいと微笑んでいればよいのではあっても、自己主張を「みんなを笑顔にする」と形容すればそれですませることができると考える紋切り型に、私は入学式や卒業式に出席しながら何か釈然としない。紋切り型の主張は、世界に出て行く時にはまったく通用しないだろう。私は自分が画家として主張している世界でそれを如実に思う。芸術に紋切り型は通用しない。
紋切り型から私には日本の現状が見えてくる。子供から大人まで、否、大人から子供までだろう---紋切り型によって閉塞情況が形成されている。血の通わない、本当に困っている人を支援することからズレている状況が形成されている。いくら制度を企図しても、どこかで糞詰まりを起こしている。画餅のような紋切り型の答を出して満足感にひたっている人達がいるからだ。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jul 7, 2015 07:42:32 AM
コメント(0)
|
コメントを書く
もっと見る