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カテゴリ:映画・TV
15日の朝日新聞(朝刊)によれば、「脚本家の荒井晴彦さんとシナリオ作家協会(柏原寛司会長)が14日、芥川賞作家の絲山秋子さんを相手取り、絲山さんの小説を原作にした映画脚本の書籍掲載を認めることと、1円ずつの損害賠償を求める訴えを、東京地裁に起した。」とあり、私の注意を引いた。
さらに記事を読むと、・・・絲山さんの小説『イッツ・オンリー・トーク』を原作とした映画『やわらかい生活』は05年に完成し、07年にはDVDにもされて販売されている。荒井晴彦さんが執筆した映画脚本は、同協会発行の『'06年鑑代表シナリオ集』に掲載する予定であったが、原作者の絲山さんが「活字として残したくない」(訴状による)と収録を拒否した。そのため荒井さんの脚本は書籍に掲載することができず、同書にはタイトルだけが記載された、というのである。 「自分の書いた脚本がどうして発表できないのか。理不尽さを感じる」というのが荒井さんの言い分である。・・・もっともなことだ、と私は思った。 問題は裁判に付されるわけで如何なる判決が下るかわからない。以下は私の個人的な考えである。 まずこの問題は、原作著作権をめぐる改作利用権(映画化権・脚色権・変形権・翻案権)および2次的著作物利用に関する許諾権に関するものであろう。なかんずく2次的著作物利用に関する許諾権が問題になっていよう。 2次的著作物利用に関する許諾権に関して著作権法第28条は、「二次的著作物の原著作物の著作者は、当該二次的著作物の利用に関し、この款に規定する権利で当該二次的著作物の著作者が有するものと同一の種類の権利を専有する」と定めている。 わかりやすく言ってみよう。 甲さんの著作物『A』を元にして、乙さんが『A’』という著作物を作った。この場合もし丙さんが『A’』を放送や出版をしようとすれば、乙さんから許諾を得なければならないのはもちろんだが、甲さんからも許諾を得る必要があるのである。 上記の場合、甲に当るのが絲山秋子さん、乙に当るのが荒井晴彦さん、そして丙に当るのがシナリオ作家協会である。 ところが甲に当る絲山秋子さんが許諾を拒否した。丙に当るシナリオ作家協会は乙さんに当る荒井晴彦さんの著作物を掲載出版することをあきらめなければならなかった。 乙さん(荒井晴彦)の権利はどうなる? 甲さん(絲山秋子)によって一方的に蹂躙されてはいないか? 著作権は財産権であるので、荒井さんの財産権が絲山さんによって侵害されてはいないか? ・・・このようにこの事件を言い直してもよいだろう。 さて、私の考えである。 小説の原作者がいったん映画化権を売り、さらにDVDの複製権によって利益を得ている以上、脚本家の財産権を侵害するのはたとえ28条の規定にもとづく行為だとしても権利の濫用とは言えないだろうか。荒井さんならびにシナリオ作家協会の訴状によれば、絲山さんの許諾拒否の言い分は「活字として残したくない」からだそうだが、この「活字」とは絲山さんの著作ではないはずだ。しかも荒井さんは絲山さんの著作権を侵害はしていないのである。 映画が原作とまったく異なる創作物であることは、いくら絲山さんでも承知していないはずはなかろう。その認識さへないのだとしたら、自分の小説を映画化することを許可しなければよい。 繰り返すが、著作権は財産権である。だから私はあえて言うが、映画化権を売って金銭的な利益をすでに得ていながら、他者の財産権は無視するというのは傲慢ととられても仕方あるまい。小説家としてのプライドのもちかたを誤解しているのではあるまいか。映画のできがよしんば良くなくとも、それは原作者の責任ではない。映画の出来を貶して自分の小説の評価が高まるものではなかろう。映画人が自作の不出来を原作の責任にすることなど到底想像できない。小説家が自作に傷がつくと考えて映画化を許可した脚本の出版を拒否するというのは、私に言わせれば「夜郎自大」、あるいは「うぬぼれ」が過ぎるというもの。 映画史には小説を原作したものが数えきれないくらい存在する。 日本の戦後映画を見てみようか。 『晩春』(原作:広津和郎、脚本:野田高梧・小津安二郎)、 『青い山脈』(原作:石坂洋次郎、脚本:井出俊郎・今井正)、 『また逢う日まで』(原作:ロマン・ローラン、脚本:水木洋子・八住利雄)、 『帰郷』(原作:大仏次郎、脚本:柳井隆雄)、 『羅生門』(原作:芥川龍之介、脚本:橋本忍・黒澤明)、 『きけわだつみの声』(原作:「戦没学徒兵の手記」、脚本:船橋和郎)、 『風雪二十年』(原作:尾崎士郎、脚本:猪俣勝人)、 『原爆の子』(原作:広島の被爆児童の作文、脚本:新藤兼人)、 『雨月物語』(原作:上田秋成、脚本:川口松太郎・依田義賢)、 『あに・いもうと』(原作:室生犀星、脚本:水木洋子)、 『蟹工船』(原作:小林多喜二、脚本:山村聡)、 『二十四の瞳』(原作:壺井栄、脚本:木下恵介)、 『浮雲』(原作:林芙美子、脚本:水木洋子)、 『警察日記』(原作:伊藤永之介、脚本:井出俊郎)、 いや切りがない切りがない。戦後わずか10年間の作品、それも名画として評価の高い映画だけを抜粋しただけでいわゆる原作物はこれだけある。。こうしてざっと見ただけで、映画の脚本というものが決して軽んずべからずのレッキとした創作物であることがわかろう。 このたびの荒井晴彦さんとシナリオ作家協会の提訴が、たんなる金銭上の損得勘定によるものでないことは、損害賠償額として絲山秋子さんに請求した金額が荒井さんに対して1円、シナリオ作家協会に対して1円 という、まったく法的形式上(民事訴訟は金銭に換算されるものである)のものであることでも分る。むしろ提訴人は紳士的であるといえる。 絲山さんはどう受けて立つのか。 そして判決は如何なることになるか。 ともかく、私は、脚本家が原作者の下位にある者として軽くみなされたり、苦汁を飲まされたりすべきではないと思う。もし、著作権法に照らし合わせて絲山さんの言い分がとおるなら、この現行法は欠陥法として改正すべきであろう。なぜなら知的財産権としての著作権法が権利者の保護を目的にしているにもかかわらず、場合によっては善意の権利者をその保護から排除するという矛盾をかかえていることになるからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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この場合、普通に二次利用物でしかないですよね。当然敗訴してますよ。
荒井晴彦って人、2023年まで全く知らなかったですが、 「未成年●●の綾野剛でピンク映画撮る」 「《邦画が売れないのは観客が低レベのせい》発言で叩かれる」 の2つで知りました😓 この人、日本人男用ポルノ作品ばかりの上、自分の権利はやたら主張する癖に、他人の権利は蔑ろにしてますね。 そりゃ原作者の先生方達は嫌でしょう。特に女性作家は。 拒否権も当然ありますよ。 原作者なんだから。 全ての権利を主張したいのなら、 最初から自分で書けばよいのでは? それで認められるならですが。 (Oct 31, 2023 01:09:25 PM)
123さんへ
コメントありがとうございました。 なるほど、123さんのお考えはわかりました。 しかし、民法訴訟の争点からは、法的に判断されるだけです。それ以外のいかなることも判断材料として採用されません。私が被告について問題にしたのは、原告の脚本による映画作品とそのDVD化において被告(小説家)はすでに利益を得ているにもかかわらず、原告の活字による脚本の出版を拒否したことを疑問としたのです。民事訴訟というのはすべてお金に換算して解決をはかる裁判です。心の問題もお金に換算されるわけです。そのため原告は、被告に対して1円の賠償を提示して訴訟にもちこんだのです。これで明らかなのは原告の脚本家は金銭的な利益が目当てではないということです。 123さんのおっしゃるようにこの訴訟は、著作権の2次使用に限定されるものです。したがって単純にみれば、敗訴は確定したも同然に見えます。しかしながら、それでは、なぜ原告二者はあえて訴訟を起こしたのでしょう。 問題になるのは、著作権の2次使用とは言うものの、映画の場合、脚本としてあらたに作り直すという、おそらく現行著作権法立法時には想定しなかったであろう問題が出てきたのです。たとえば雑誌に発表したマンガを、CM等にその絵を2次使用するのとはまったく異なります。 私が指摘したように、小説を原作とした映画は膨大な数にのぼります。しかし、かつてその脚本が出版拒否されたことはないはずです。私たちは現在、『年鑑代表シナリオ集』によって日本映画の代表作と評価される映画の脚本を活字で読むことができます。映画の発展と後進の勉強のために、おおいに役立っている出版物です。小説家(及びその著作権所有者)は、原作映画化を許可しその権利を売り渡した時点で、小説の活字と映画脚本の活字はまったく異なることを十分承知していたでしょう。しかも実際の人間が動き話す映像となっても、なお小説がしっかり自立し得ることを誇っていたからです。文学はそんな弱々しいものでないということです。 つけくわえますが、職業人としての脚本家は、あらゆる映画のために書くのです。ポルノであろうとヤクザであろうと、犯罪者であろうと、狂気であろうと、女であろうと男であろうと今日の言葉でいうならLBGTであろうと、・・・人間のあらゆる姿を書きわける職業です。人間のあらゆる姿、言動をえがくから芸術たりうるのです。私はポルノ映画をまったく軽蔑しません。それは人間のもっとも重要な行為を見つめているからです。大島渚監督の『愛のコリーダ』をご参考までにあげておきます。 法学部出身の画家、私山田の考えを述べました。 (Oct 31, 2023 02:42:28 PM) (Oct 31, 2023 03:45:32 PM)
脚本家が原作者をないがしろにし自死へと追い込んだ事件が起きて日が浅いですが、今でも山田さんのお考えはお変わりないのでしょうか?
(Feb 6, 2024 04:57:31 PM)
赤坂ささんへ
コメントありがとうございます。 私はもう6年間ほどTVをまったく見ていません。また、コミックやアニメーションについてもほとんど何も知りません。赤坂さんのご指摘の件に関して、YouTube等の投稿を見てみましたが、原作漫画家が自死したことについては誠に痛ましくおもいます。おそらくこの件があってのことだと推測していますが、私のこの「映画脚本家の名誉のために」に毎日多くのアクセスがあります。おそらく赤坂さんが思われたように、その方達も私の記事に何らかの疑問を抱かれたかもしれません。 そこで申しあげますが、私がこの記事で取り上げた実際の訴訟問題と、このたびの漫画原作のTV脚本家との間の問題は、根本においてまったくことなると思います。私が言及した訴訟は、脚本を出版することを原作者が「活字に残したくない」と拒否しているので、私はそれは小説家が脚本家の財産権侵害の疑いがあるのではないかと指摘したのでした。 さて、漫画原作の脚本化・映像化において、原作者が作品にこめたメッセージを無視して(おそらく)まったく別物ができあがったのだ、と私は推測しました。ここには小説を原作にするのとはまったくことなる問題が潜んでいたと思います。すなわちコミックはそもそもがすでに画像であるということ。コミック・ファンの心の中・感覚にはほぼ具体的なイメージの動きがあるのだということ。これは私自身が画家・イラストレイターであるため、読者が原画から受け取った印象がどのように発展していくか、あるいは増殖していくか、あらたな空想がはたらくか、をある程度知っているつもりです。事実、私は読者に「なんであなたは私の記憶を知っているのだ!」と詰め寄られたり、「先日亡くなった祖母が、ヤマダさんが描いてくださった世界に生きているのだと感じました」と礼を言われたこともありました。・・・私の例は映像化されたわけではありませんが、原作が画像である場合、あらたに映像化する制作者も脚本家もセンシブルになる必要があるでしょう。人気コミックだから映像化をすれば当たるだろうなどと、安易な考えでは後々トラブルが発生することは初めから予測できます。少なくとも他人まかせにしないで、原作者と脚本家・映像製作者がひとつテーブルで綿密な打ち合わせをするべきでしょう。コミュニケーションと一口に言いますが、実はお互いの根本的なメッセージはまず正しくは伝わらないものだ、と私は常々思っています。 この問題を考えると、詳細な契約書を交わす土壌が成育していないのだと言えるのではないでしょうか。私は海外の仕事で数十ページにわたる契約書を交わしたことをおもいだします。そこには画廊の入り口の雪道で誰かが転んだ場合、誰が保障するかなどということまで取り決めました。今回の漫画映像化に関して起こった問題が、契約の詳細化をめざす方向にもって行ければよいのだがと私は思いながら、赤坂さんへの返事といたします。 山田維史 (Feb 6, 2024 08:59:58 PM) |
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