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「日本では様々な犯罪が起こっている。もうけるためならうそを言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうかと。かつての日本人はどこに行ってしまったのか」(9月29日付 朝日新聞 中山国交相、日教組巡る発言撤回せず「教育のがん」より引用)
「親や子供を殺すようなことが珍しくもない世の中になったのはなぜか。やはり戦後の日教組教育の大きな過ちだ。それが民主党の支持団体じゃないか」(10月21日付 毎日新聞 森元首相:日教組批判 「親や子を殺す世の中、戦後教育の過ちだ」より引用) ここ数日、親殺し、子殺しのニュースが話題になっている。 ただし、少年犯罪データベースによると、戦後、というか日教組の活動が華やかなりしころの方が、親殺しについては件数が少なく、むしろ、中山先生とか、森さんの少年期の方が親殺しは横行していた。子殺しにいたっては、日本では確実に減少傾向にある。 参照: 少年犯罪データベース 親殺し統計 嬰児殺(赤ちゃん殺し)と幼児殺人被害者数統計 そもそも、平成19年度の犯罪白書によると、殺人罪の認知件数は1199人で、戦後最低レベル。むしろ犯罪の高齢化が進んでいて、60代の犯罪がやたらと増えている。人口比率や経済的な理由が多いとはいえ、日教組が悪いなんて言えるんですかね? 参照: 法務省 犯罪白書 警察庁 統計 どうにもならない日々 殺人の認知件数・検挙人員の推移(1926年~) 殺人事件の認知件数の推移(10万人あたり) 「犯罪件数が増えていないのに、犯罪が増えている感覚がある」というのは、「歳のせい」といいたいところだけど、犯罪を大々的に報道して不安を煽り立てるマスコミと、それを面白半分に楽しんだり、いちいち簡単に踊らされたりするような軽い連中と、その連中を利用するかのような輩のせいであり、そういう奴らこそを指弾すべきではないか、と思うんだけどもね。 しかし、こうやって見ると、日本の犯罪の推移って、まさに「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と言える。食べることに余裕ができてくると、人間って罪を犯さずに、礼節を弁えるようになるんですな。もちろん、日本人が目標を失ったり、経済が悪くなってくると、また犯罪は増えるようになるんでしょうが。 ただ、「親殺し」「子殺し」が犯罪のバロメーターになるというのは、ちょっと考えさせられる。 「世衰え、道微して、邪説暴行作(おこ)る有り。臣にして其の君を弑する者これ有り、子にして其の親を弑する者これ有り。孔子懼(おそれ)て、春秋を作る。春秋は天子の事なり。是の故に孔子曰く『我を知る者惟だそれ春秋かな、我を罪する者惟だそれ春秋かな。』」(「孟子」滕文公章句下より)。 「世の中が衰えていき、道徳は廃れていき、邪説ははびこり、犯罪が横行するようになった。家臣の身で君主を殺す者や、子の身で親を殺す者が現れるようになった。このとき、孔子は世の混乱を恐れて『春秋』を作った。本来は、春秋のような歴史書は、天子が編纂するものである。そのため孔子はこうおっしゃった。『後の世に私の考えが理解されるとしたら、それはただこの『春秋』によってであろう。また、後の世に私が非難されるとすれば、これもまた『春秋』のためであろう。」 予め言っておくと、この孟子の文章は、孔子が「春秋」の編纂に携わったとこについての補強の意味合いが強くて、批判も多いのだけど、いずれにしても2千年以上前の春秋戦国時代の文章に変わりはない。いくら世が乱れていようとも「親殺し」と「主君殺し」はいかんであろうと、孔子は言っておるわけです。「忠孝の精神」は重要だとね。いつの世にもそういう悩みがあるわけね。中山先生や森さんの問題提起は、2500年前の孔子と同じ視点。 ・・・・ 刑法第200条 「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」 という条文が、かつて、というか、ほんの十数年前まで刑法の条文にあったそうな(平成七年に廃止)。殺人罪よりも重い尊属殺人罪というもので、「親殺し」をした者は死刑と無期懲役しかないという重罪。これは、儒教の考えでの「孝(親への感謝と敬愛、礼節を説く)」の精神の表れで、東アジアでは道義的には当たり前という時代が長く続いていた。つい最近までね。 しかし、親のひどい虐待によって(まさに筆舌に尽くしがたい虐待で)、子供が親殺しを犯してしまった事件(参照:心臓の弱い人は読まない方が無難)が起きて、最終的には「親殺しは大罪である」というのは、儒教的なイデオロギーであるとして、削除されるに至った。 要は「親殺し」が「子殺し」よりも罪なのか?ということですよ。「親殺しだけが大罪なのは差別である」とね。ま、調子に乗ると古代の中国人はおかしいと文句を垂れるヤツが出てきます。 しかしね、減少傾向にあるとはいえ、誕生するはずだった命を、人工中絶で年間30万も断っている日本人が「子供の命を大切にしている」とは到底思えない。 ライオンやサルはボスが替わると、前のボスの子供を新しいボスが殺すという「子殺し」という現象は、動物行動学上も証明されているし、日本で最近よく起きている子殺しというのも「連れ子」を虐待するケースが多い。家族という社会の最小単位の伝統を軽視する風潮が「子殺し」を併発させているのは、そうだと思う。そもそも、中国だけじゃなくて、日本でも貧しい家では永らく「口減らし」のために子供を売りに出すどころか、殺害することも多かった。その中で親に対する感謝の気持ち「孝」という精神は、最低限必要な徳目であったというのは、否定すべきではないと思うんですよ。 ・・・ 「民法出でて忠孝亡ぶ」 というのは、明治の頃にフランスの民法を導入しようとした時の民法論争の際の名言。日本が近代化をするときに、ヨーロッパの家族制度に倣おうとして、伝統的な「忠孝の精神」が廃れていくことを危惧した発言なんだけども、現在、中国でも、韓国でも、東南アジアでも、インドでも近代化に合わせて、子供が親を介護ししなかったり、親の手助けをしない人たちが増えてきている。それを嘆く人たちがいる。今まで当然のことだった「親孝行」という美徳が、どんどんなくなっていっている。翻ってお前はどうなんだと言われるとキツイんだけど、やっぱり、日本人が忘れつつあることも事実。孔子から始まって、長い間に日本人がアレンジしていった忠孝の精神は必要だし、日本人の背骨でしょう。同時にアジア共通の価値観でもある、というか、価値観あった部分も大きい。少なくとも、「孝の精神の欠如」は、近代化のひずみであり、明治の頃から始まった話で、日教組が悪いとかいうのは、ピントがずれすぎじゃないでしょうか? 日本人の儒教教育というのは、江戸時代の絶頂期から、明治維新以降の近代化のために弱体化(教育勅語はかなり儒教的だけど)し始めて、戦後はGHQによってとどめの弾圧を受けた。替わりにアメリカさんは「個人主義」と「競争主義」と「拝金主義」を植えつけたというのは、おかしいですかね?これをうまく己に取り込みながら、「自分のものにする」ことで日本の今までの発展はあったのだと思います。道徳教育としての「儒教」というのは、その保守性の強さから世界の動きに対応できなくなるので、反対なんだけど、古典として、教養として、儒教を学ぶのは大事だと思います。 子曰く、「疏食を飯(くら)い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我れに於て浮雲の如し」(「論語」述而第七ノ十五) 孔子はおっしゃった。「粗末な食事を食べ、酒ではなく水を飲み、肘を枕に眠る、そんな生活の中にも喜びはある。道ならぬ道で金を儲けて高い地位を得るような、そんな生き方は私にとっては浮雲のように儚く見える。」 金融危機でむちゃくちゃになっている昨今。実体の伴わない金融商品なんかで大儲けした後で、大損なさっちゃった方には、重い言葉でありましょう。しかし「不義にして富む」ことを「浮雲」であると表現する孔子の距離感は凄い。しかも「義にして富む」つまりルールと倫理に則って金儲けをすることを否定はしていないわけで。今では共通語になっている「コンプライアンス」なる外来語があるけど、まるで、それまでの日本人が法を遵守しなかったようで、私は嫌いです。そもそも法律を外圧で変えまくった親玉にバチがあたったので、今のところ「残念でしたね」としか思わないけども、やっぱりまっとうに働いてなんぼですよ。庶民は。「浮き雲」って「バブル」と読み替えるとまた味わいが変わってくるな。やっぱ、齧って読むだけでも、論語は凄いもんです。2000年残るだけはある。 ま、儲けたければ働けばいいんですよ。何にも悩むことではない。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.27 20:50:03
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