(書評)九州大名誉教授・斎藤文男〈著〉『ポピュリズムと司法の役割 裁判員制度にみる司法の変質』評者・斎藤美奈子(文芸評論家)30日・朝日新聞・「書評」欄
私:2009年に導入前された裁判員制度。 この制度が始まった頃、俺に一度、選任通知がきたことがあり、宝くじが当たったようだと喜んで、裁判の中身を体験したく裁判所に出頭したが、20名位いて、裁判官・弁護士などと数名ずつ面談し、そこで、健康上や、仕事の都合で、裁判員ができない人などは辞退を申し出ていた。 待っている間、扱う事件の内容が実名で掲示されていて関係者は、辞退することになる。 たしか、殺人事件ではなかった。 面談が終わって、辞退を了承された以外の人たちで、また、抽選で数名選ばれたが、俺はこの抽選で落ちた。 辞退者が多いので多くの余裕をみて、出頭要請をしていたんだね。 ところで、9年たって、この制度に問題が多いことが、本書で指摘されている。 運用面から見ても裁判員制度はすでに破綻しつつあり、16年現在、選任手続きのための出頭に応じない「無断欠席者」は37%、裁判員を辞退する人は65%。 世論調査では約8割が「参加したくない」と答え、その理由は「的確に判断する自信がない」などで、本音をいえば、裁判員なんか誰もやりたくないのだ。 A氏:量刑が変わる、死刑が無期懲役になる、甚だしきは有罪が無罪になるなど、控訴審で判決が覆るケースも少なくない。 裁判に「市民感覚」を反映させるというのが導入の理由だったはずだが、控訴審でひっくり返るなら、何のための「市民参加」かわからない。 評者は、裁判員制度は司法のポピュリズムに関係していると著者は指摘しているという。 民主主義は政治に民意を反映させるしくみだが、民意はときに暴走する危険をはらむ。 司法はそこに自由主義の観点から歯止めをかける役割を果たしてきたはずだ。 〈裁判員制度は国民の司法参加によって、司法を法の支配ではなく、多数の支配のための機関に変えてしまいました。これでは、三権がいずれも多数支配の原理によって運用されることになり、権力の抑制・均衡が働く余地はありません〉〈司法を「民主化」してはならないと述べたのはそのためです〉と著者はいう。 私:評者は本書の読後感として「刑事裁判は人の命にかかわる事案だ。医師の資格を持たない素人に医師の代行が務まるだろうか。 中高生でも理解できるやさしいタッチで書かれた良書。しかし、その批判と問いかけは鋭く、重い」という。 果たして裁判員制度の見直しは、いつ、行われるだろうか。