A氏:稲尾投手が急逝したね。
70才だというからまだ、これからやる仕事があったのにね。
残念だね。
私:俺たち世代は、敗戦後の中学、高校生時代のスポーツは野球中心だったね。
だから、当時のプロ野球は特別の思い入れがある。
特に稲尾投手はそのなかで超人的な選手だったね。
何か貴重な心のシンボルを失った気がするね。
寂しいね。
A氏:例の昭和33年の奇跡の日本シリーズ逆転劇は、事実は小説よりも奇と言うか、考えられない感動的なドラマだったね。
稲尾投手は7試合中、6試合を投げている。
稲尾投手がいなかったら、西鉄は巨人に対して日本シリーズ3連覇は無理だったろうね。
私:このとき、西鉄は魔術師といわれた三原修監督だね。
昭和25年、水原茂氏の巨人監督就任とともに巨人を追われ、福岡に行き稲尾、中西、豊田、仰木らの西鉄ライオンズを育てる。
そして、怨念の水原巨人と日本シリーズで対戦し、昭和31年、32年と巨人を破り日本シリーズを2連覇する。
A氏:水原巨人は面目にかけて西鉄の三連覇を阻止しなくてはならない。
私:実は、この昭和33年は、西鉄ライオンズは7月首位南海ホークスと11ゲーム差あったんだね。
苦しい戦いをするが、追い上げて10月2日にリーグ優勝が決まり、平和台球場で三原監督の胴上げとなる。
かくして日本シリーズは、また、水原巨人との対決となる。
A氏:この年は、長島茂が巨人に入団した年だね。
巨人はなんとしても日本シリーズの連敗から脱したかった。
私:10月11日、後楽園球場で第1戦スタート。
巨人は後楽園で2連勝。
そして3戦目は平和台球場に移動する。
14日の第3戦は平和台球場で行われたが、また巨人が勝つ。
もう西鉄には後がなくなった。
A氏:ところが、天は粋なことをするものだね。
翌15日の試合は、前日夜半よりの雨で中止となる。
今のドーム球場のような味気のない時代ではないね。
これが西鉄にとって天の恵みの雨だったのか、流れが変わったようだね。
私:16日、満員の平和台球場で西鉄ははじめて勝つ。
翌日の第5戦は9回裏まで西鉄は負けていた。
それが9回裏で同点に追いつく。
俺の記憶に間違いがなければ、関口選手が同点打をした。
当時は白黒テレビなんで、この同点打のシーンが未だに白黒で脳裏にある。
これから流れが一挙に西鉄に移る。
延長10回に稲尾のサヨナラホームランで勝つ。
A氏:この後、後楽園球場にもどるが西鉄が稲尾の連投で連勝する。
まさに奇跡の4連勝で、日本シリーズ3連覇を達成したね。
これはアメリカにもない奇跡であるというね。
私:今から6年前の真夏に俺は福岡に仕事で出張した。
泊まったホテルが舞鶴公園に近かったので歩いて平和台球場の跡を見に行った。
十数年前に球場改修工事のときに遺跡が発見され、工事は停止され、今は遺跡の博物館ができていた。
外野席であろうか、取り壊しの途中の残骸が残っていたね。
その残骸を見ながら、この奇跡の逆転劇を思い出したね。
当時の西鉄ライオンズは野武士集団と言われ、管理野球ではなかった。
まさに、「夏草や、強者『つわもの』どもの夢のあと」だったね。
今度、その奇跡のドラマの主人公が急逝して、しみじみ時代の流れを感じたね。
もう、こういう投手は出てこないだろうね。
A氏・私:心からご冥福を祈ります。