私:海外生活が長い親が学校で教師が英語を教えているところを見て批判するというケースだね。
奥さんは英語塾まで開いているという。
A氏:教師は、子どもとの対応が中心であって、こういう特殊な専門的な部分だけで評価するのはどうかね。
私:教師も子どもにもまれて成長する。
藤原氏は和田中に来て驚いたのは「教師とは、これほど、生徒のことを見ているものなのか」ということだったという。
子どもが集団で活動していると、比較できる。
ある意味での人間オタク、子どもオタクだという。
親と違った観点から子どもを見ている。
A氏:そのような教師の多面的な活動を親は理解すべきだかね。
しかし、それなら、イジメは見破られると思うが、そのオタク教師の目をくぐって巧妙ないじめがあるのかもしれないな。
私:ケース10は教師の悪口を学校や子どもにふれまわる親だ。
これは、教師より親が高学歴であったりして、社会的に教師を尊敬していた過去の環境が崩壊してきたことが背景にあるようだね。
教壇が一段生徒より高いのは権威の象徴であったがそれも今はなくなってきている。
だから、教師と生徒や親との間に信頼感がなかったら、教育は成立しないという。
教育とは「信頼を創造する行為」であって、信頼のベースこそがすべてだと藤原氏は強調する。
A氏:教育だけでなく、営業も製造も、「信頼を創造する行為」だね。
耐震偽装、賞味期限偽装などは信頼を崩壊させたね。
私:商品の性能は代替で保証できるが、教育は先生や教育内容に信頼がなくなったら完全に機能停止する。
それは教育が人が直接伝える作業であり、人から人への直接行為であり、伝える側の信頼が崩壊したらそれで終わりだということだね。
A氏:受け取る側も完成品を消費する消費主義の感覚ではダメだということだね。
日本は高度成長時代から、成熟した社会に移行しているのだから、人との付き合いも、白黒でなく、多様な人とうまく接していく知恵が必要なんだね。
そういう知恵をこれからの時代の子どもに身をもって親は示さないと、幼稚な感覚で先生を批判していると、ブーメランのように自分の子どもに返ってくる。
私:気に入らない親の子を違う学級にしろとクラス編成に注文をつける親がケース11だね。
クラス編成で保護者の声を聞くことはないという。
藤原氏は、学芸発表会のことを考えてピアノを弾ける子を最低1名を配分したという。
そして、あるクラスに成績がよい子、歌のうまい子、スポーツの得意な子が集中しないように編成するという。
さまざまな能力をもった子が分散して、クラスで張り合ったほうが、子どもの成長のためによいという。
ケース12は担任が「キモイ」という子どもの言葉に同調して担任の交代を要求する親だね。
藤原氏は、先生が一生懸命にやっているのに、こういう問題が発生するのは、社会全体のコミュニケーション能力低下が起きているからだという。
お互いに突っ込んだ議論をしないで、「キモイ」などという自分の気持ちだけを基準にしてものごとを考える「自分の気持ち至上主義」がゆきすぎているという。
「大人の視点」がない。
だから、学校の方も過剰な自己防衛に陥る。
A氏:「いじめは当校ではゼロだ」という非常識な発言をする校長が出るようになる。
私:ダメ親のケースの最後である13は、自分の子どもの言うことを鵜呑みにして教師を責める親だね。
フィンランドの例をあげているね。
フィンランドで「平等な教育」は「特別な支援が必要な子どもには専門の教師が少人数クラスで教える」ことを指すという。
A氏:フィンランドは留年が多いというね。
私:きちんと履修するのが「平等な教育」だと親が理解しているんだね。
ケース14は、毎晩、子どもの様子を先生に電話をかけて報告させる親だね。
これには、先生のほうで受身でなく、メールの使用などで、コミュニケーションを積極的にとる方法を提案しているね。
明日は、バカ先生についてふれよう。