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私:上田岳弘氏は、15年に三島由紀夫賞を受けた作家で、この寄稿では、興味ある視点で改憲問題を、9条問題を論じている。 連載中の長編小説では、「キュー」という単純かつ多義的な音が引き寄せる物語を、九章構成で描こうとしている。
「憲法9条」で、日本において、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」が明文化されるきっかけとなった《世界大戦》は、人類史におけるメルクマール(指標)。
上田氏の連載中の長編小説の作中でも、歴史に倣ってそのように扱っていて、《世界大戦》が、戦後七十年以上経過した時代を生きる我々の精神に、いかなる影響を及ぼしているのか、それを分析することが、「キュー」のテーマの一つ。
A氏:思想家の柄谷行人氏は、「憲法9条」の存続は、人々の「無意識の罪悪感」のあらわれであると言う。
全力で取り組んだ戦争に負けた我々日本人は、終戦当時、敵国に対してではなく、東アジアにおいて起こした戦闘が侵略行為であると断じられたことは、おそらく我々が罪悪感を抱く一つの理由となっていて、西洋における侵略の歴史を繰り返すつもりはなかったにせよ、我々の作ろうとした「満州国」は、理想に遠く及ばず潰えた。
私:「憲法9条」は、理想的かつ非現実的であることは、二度も世界大戦を引き起こした人類史の「無意識の罪悪感」を我々に植えつけているから、「戦争放棄」を謳おうとする。
「理想」とは、少なくとも誰かが訴え続けなければ実現しないものだ。
そして「戦争放棄」という遠大な「理想」については、大戦の終着地であるここ日本がそれを掲げる役回りとなったと上田氏はいう。
A氏:非現実的にすぎて、他の国には見られないような「憲法9条」を受け入れたのは、敗戦の疲弊のせいであれ、天皇制を戦勝国側に認めさせるためであれ、我々は七十年もの間、「戦争放棄」を掲げてきた。
そして今回、改憲で、我々は現実に即していない条文に対して、どのような判断を下すのか。 再び「無意識の罪悪感」があらわれ、「憲法9条」の改定を拒むのかと上田氏は問う
私:ここで、上田氏は改憲のための「国民投票」の問題に論点を移す。
これはすでに昨日のブログ「国民投票、経験国からの警鐘 首相退陣に追い込まれた英伊を視察、衆院議員団報告書」でふれているね。
上田氏は、今日、「投票」という手続きによって憲法改定を問う場合、我々が本当に望むことが「投票結果」として表れるとは限らないのではないかという。
「憲法改定」自体は「国民投票」に付されるのだとしても、それら手続きの変更については、通常の国会運営の中で決められていき、周辺の手続きについては、為政者の意思や都合によって決められるという。
A氏:この上田氏の懸念は、昨日のブログ「国民投票、経験国からの警鐘 首相退陣に追い込まれた英伊を視察、衆院議員団報告書」でふれたように、与党の敗退に終わることもあるので、杞憂にすぎないかもしれない。
私:無意識であろうがなかろうが、最高法規である「憲法」を改定するのであれば、国民の意図が正しく反映されるべきで、思い出されるのは、イギリスのEU離脱の「国民投票」だと上田氏も英国の例をあげているね。 真偽不明のニュースがあまた飛び交う中で行われた投票の末、「離脱」という結果がもたらされ、果たして国民は本当にそれを望んでいたのかどうかと上田氏はいう。
これは、昨日のブログ「国民投票、経験国からの警鐘 首相退陣に追い込まれた英伊を視察、衆院議員団報告書」でふれたように英国の「国民投票」は失敗例だね。
この寄稿の最後に上田氏は「小説『キュー』は、「憲法9条」のみを主題にしているわけではないが、筆を進めつつ、『稀有な文言』がこの国に存続する意味を日々考えている」という。
まさに、「稀有な文言」の「憲法9条」の改正には、単純な自衛隊の問題だけでなく、日本の戦前・戦後の歴史がからんだ非常に重い課題をかかえているね。
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Last updated
2018.02.01 23:15:02
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