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私:森鴎外が自らのドイツの留学時の経験を重ねたとされる小説「舞姫」の小説に、「欧羅巴(ヨーロッパ)の新大都の中央に立てり」と出てくるブランデンブルク門のそばにある信号機(アンペル)には「アンペルマン」と呼ばれる愛らしいキャラクターが使われている。
帽子をかぶったやや太めの男性が今にも歩き出しそうにつま先をあげる緑の「進め」と思い切り両手を広げた赤の「止まれ」。
「ベルリンの壁」のできた1961年、旧東独の交通局に勤めていた交通心理学者カール・ペグラウ氏がデザインし、当時、帽子姿が金持ちや資本主義のイメージで受け止められないか心配したという。
A氏:工業デザイナー、マルコス・ヘックハウゼン氏(56)は学生時代、東ベルリンで見た「アンペルマン」をよく覚えていて、冷戦の末期、西ベルリンから1日ビザで訪れた東側は薄暗く、すべてが灰色に見えた。
その街で見たひときわ目立つ緑と赤の信号機「アンペルマン」はユーモアにあふれ、がんじがらめの東の体制とは異質な印象を受けたという。
その後、イタリアで経験を積み、95年にベルリンに戻った彼は、90年のドイツ統一後、西側の信号機に置き換えられ、「アンペルマン」は粗大ゴミとして放置されたを見て衝撃を受ける。
「アンペルマン」は、魅力的なデザインで、太めのキャラクターは西側の信号機より識別しやすいのにである。
私:ヘックハウゼン氏は、処分される「アンペルマン信号機」を無料で譲ってもらい、星形の壁掛けランプを製作し、96年に売り出すと3カ月で約300個売れた。
緑色のランプの周りには、東側にいた人へのエールを込めて英語で「キープ・オン・ウォーキング(歩き続けよう)」と書いた。
初めは統一を喜んだ旧東独の人々は、2級市民の扱いを受けて、その後、後悔の念を抱く人もいたという。
ヘックハウゼン氏は、ランプ製作をきっかけに「アンペルマン」の生みの親であるペグラウ氏とも知り合い、信号機以外の商標権を取得。
芸術家や行政を巻き込んで「アンペルマン信号機」の復活運動にも乗り出し、ベルリン市は05年、「アンペルマン」を公式に採用。
いまでは市内の信号機の9割を占め、優れた西側の製品が統一後の街を席巻するなか、東側の製品のなかで過去の遺物にならずに使われ続け、統一ベルリンのシンボルへと生まれ変わった。
A氏:数奇な運命をたどった「アンペルマンの信号機」は今月中旬、鴎外の縁で日本にやってくる。
「アンペルマン」発祥の地で鴎外が住んでいたベルリン・ミッテ区の交流使節団が鴎外記念館のある東京都文京区に「平和の使者」として贈ることになったからだ。
私:「ベルリンの壁」崩壊から28年たった今年2月、壁が存在した期間より崩壊後の方が長くなったが、東西の格差はなお残り、不安と不満につけ込んだポピュリズムがはびこる。
筆者の石合力氏は、「『心の壁』が築かれつつあるのではないか。分断と統一を見つめてきた『アンペルマン』。岐路に立つドイツの行く末に、何色の信号をともすのだろうか」という。
現地の感覚からは、経済好調のドイツに格差による拡大しつつある分断があるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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