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私:最近の政治家のことばは、どこか空疎になっていないか?ということで、「耕論」欄で3氏に聞いている。
このうち、著述家・古谷経衡氏の考えに興味を持った。
古谷氏は、麻生さんの「新聞を読まない人は全部自民」発言にしても、自民党議員ががん患者に言い放った「いい加減にしろ」というヤジにしても、政治家の失言のレベルがずいぶん下がったなと思うと言う。
A氏:政治家の失言は昔からあった。
2001年に森喜朗首相(当時)は「日本は天皇を中心とする神の国」という前年の発言をきっかけに支持率が低下して退陣。
07年には「原爆投下はしょうがない」発言をした久間章生防衛相(同)が引責辞任。
でも今や、政界では罵詈雑言レベルの失言が頻発し、進退の問題にもならないし、世間で議論すら起きない。
私:古谷氏は、理由の一つは、この6年、5回もの国政選挙ですべて圧勝し、危機感のない自民党議員が増えていることで、森友・加計問題など雨が降ろうがやりが降ろうが選挙に勝つものだから、政治家に「耐性」がついてしまったことだという。
ネット上で右翼的な考えを発信する「ネトウヨ」に支えられている面もあり、主に40代以上の中高年層の彼らは、知的で裕福、スマートな「上から目線」の人々を嫌う。
逆に親近感を覚えるのが、凡庸でやぼな存在で、「はめられた可能性もある」発言はまさにそれで、「ネトウヨ」やそれを過大評価するメディアによってその言説が拡散され、社会の失言へのハードルは下がったと思うと古谷氏はいう。
A氏:しかし、古谷氏は、劣化していく政治家の失言が許容される最大の要因は、日本の大多数の有権者にあると思うという。
経済成長が鈍化し、以前は合理的な思考により働いていた「何の得にもならない」失言に対するブレーキが弱まり、それに加えて、少子化や人口減がこれほど進んでいるのに、それを多くの有権者が直視しようとしない現実が起きているという。
バブル期には本当にこのままでいいのかと訴える「日本悲観論」が起き、00年前後には「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組があり、いずれも社会に自省を促す意識があった。
しかし、今やそれは、伝統文化や観光地などの日本礼賛の番組、明治時代の日本を懐古する風潮に変わり、「就職率が回復したから失言ぐらい」と甘受されるようにもなった。
私:こうした状況を「悲惨だなあ」と達観して見るだけだったリベラルの責任は大きいとと古谷氏はいう。
本当は「おかしい」ともっと声を上げなければならなかったし、もっと熱く泥臭く、政治家の失言を批判すべきだったと思うといい、政治家の失言は、有権者の民度を映す鏡だという。
この古谷氏の考えは「與那覇潤氏著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』」のブログでとりあげた與那覇氏の考えに同じ内容が多いね。
與那覇氏は、「平成史」は、政治も世論も「一大転向の時代」とみる。
2012年、民主党政権が崩壊して、多くの有権者が「改革」や「二大政党」の夢を捨てた。
それ以来、優勝劣敗の自由競争をいとわず、政治は強い指導者に一任するといった形で日本社会の「中国化」が進んでいると與那覇氏は指摘。
A氏:確かに、今の日本の1強多弱で動かない政治情勢をみると、習近平独裁体制の「中国化」が進んでいるように見えるね。
多数意見や社会のムードに迎合するなら、知識人の存在意義はないことになった。
「自分たちがいつ、なぜ『転向』したのかを自覚し、検証する意味は大きいはず」と、與那覇氏はいう。
有権者の民度を映す平成の「政治家、空疎なことば」の時代は、平成の次の時代まで持ち越されるのだろうか。
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Last updated
2018.07.21 16:32:28
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