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カテゴリ:映画
すばらしい映画だった。現代人が観るべき、観ておくべき100本の映画の1本に数えられる。もしかすると、もう少し母数は少ないかもしれない。
こういう映画を観ると、この映画はフランス映画だが、ヨーロッパはさすがだと思わずにいられない。日本もアメリカも、100年、いや1000年たってもこうした映画は作れないのではないだろうか。ヨーロッパのヒューマニズムの持つ懐の深さ豊かさとそれ以外を比べるとき絶望的な気分になる。 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を知っている人は多くても、他の国のそれを知る人は少ない。しかし、ナチスに強制されたわけでもないフランス政府が行ったユダヤ人迫害を描いているという予告編を見て、期待して足を運んだ。 しかし映画は良い意味でそういう期待を裏切るものだった。こうしたテーマの映画にありがちの告発調はいっさいなく、勇気と機転ある少女の冒険譚ともいえる前半に、ずしりと重いテーマを突きつける後半が続く。 戦争がもたらしたむごい傷跡を「現在と過去」「記憶と未来」の問題としてミステリータッチで描いているが、この映画が秀作になったのは、こうしたミステリータッチが想像力を刺激すること、たまたま事件に遠い関わりを持った女性記者の取材という手法をからませたからだと思う。 ユダヤ人を迫害するフランス兵の中にも人間性のある人物はいて、サラを収容所から逃がす、といったような細部が映画全体を暗い色調にせず未来へと希望をつなぐ。 しかし反面、どんな親切、どんなヒューマニズムをサラの悲劇を救うことができない。幸福な家庭も、実直な夫の愛も、息子の存在も、サラの魂を救うことができない。女性記者の渾身の取材によってサラは自殺したことが明らかになるが、こうした人たちは「正史」の陰にたくさんいたと思うと、無数の「サラ」の存在に胸が痛くなるし、芸術にしろ映画にしろ、こうしたこと描くのが義務であり唯一の存在意義であるという気がしてくる。 一カ所、非常にいいと思うシーンがあった。女性記者はニューヨークの雑誌社の記者なのだが、この「ヴェルディヴ事件」について若いスタッフに話すと、若い女性は「吐き気がする」と言い放つ。しかし年配のこの女性記者は、「自分がその立場だったらどうか考えてみることよ」と諭す。この視点、自分だったらそのときどうしたかを考えるのが、映画を観たり小説を読んだりする意味なのだ。この監督が、こうしたことをどうしても言いたかったところを見ると、没主体的にしか歴史を見ることができない人間がヨーロッパにも増えているということなのだろう。 この監督の名前はジル・パケ=ブレネールという。 いい映画は、まるでその人間が実在したかのような存在感を観る胸のうちに残す。「存在の耐えられない軽さ」のトマシュやテレサ、「道」のジェルソミーナ、「チャップリンのキッド」のキッド、「黒い瞳」のロマーノ・・・「サラの鍵」のサラもまた、そんな一人であり、全人類は存在しなかった彼女のために涙を流すべきだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
July 5, 2012 10:54:22 AM
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