第2章 -1- 『夢』-1
---あの日以来、夢を見る。深淵の闇の中、朔は膝を抱え込み座っていた。漆黒の闇は目をふさがなくても、何も見せない。闇から生まれる静寂は耳をふさがなくても、何も聞こえない。だが、それでも朔は自身を守るようにきつく自らの身体を抱きしめる。小さく縮こまり、ぎゅっと瞳を閉じた。その時、ふわりと空気が動くのを感じた。普段は気づきもしないが、今は神経が過敏になっている。(……来たっ)指先に込める力が強くなり、白く変色していく。縋るように掴んでいる肩が痛みを訴えているが、朔はその痛みではない何かに耐えるように必死に身を小さくした。だんだんと近づいてくる人の気配に、ただただ純粋な恐怖という津波に、心が飲み込まれていく。「どうしたの?」柔らかな声さえも、今の朔には恐怖でしかない。そっと肩に触れられる指先の温もりに、びくりと朔は身を固まらせる。触れた指先は戸惑うように離れた。「…… 」ずきり、と鋭い痛みを頭が訴えた。女性が何か言葉を放ったと同時に。確かに柔らかな声は、音となり耳に届いたはずだ。だが、脳に届こうとした瞬間、音は凶器となった。鋭い音のナイフは突き刺し、そのまま傷口を開こうと上下左右、混ぜるようにえぐる。その痛みのせいで、何の言葉だったか理解できなかった。「…………っ」「やはりプロテクターが強いのね、この は」ごめんね、という呟きとと共に痛みに耐える朔に、優しい手が触れる。頭に置かれた手が、ゆっくりとなで始めた。不思議なことに触れられるところから、痛みがゆっくりとだが引いていった。驚きについ朔は面を上げ、手の持ち主を見上げた。藍色の瞳と視線がかち合い、ぎくりと凍る。怯えが顔に出たのか、麗しい顔が悲しげに歪む。反射的に視線を逸らした。罪悪感がじわじわと訴えてくるが、どうしようもないのだ。メノマエニ、ジブントオナジカオガアル。信じたくなくて、見たくない顔が。月の色溶かしたようなサラサラとした髪。藍色の大きな瞳と桃色の小さな唇、筋の通った小鼻が整って顔に配置されている。(信じたくない)自分が同じ顔をしているなど。だが否定しても、何度夢と思っても現実では自分はこの女性の幼い頃の姿、と言われても誰もが納得できるほど似ているのだ。唯一の違いは瞳の色だろう。だが今の朔の瞳、晴れた夜空色の瞳、も、今までの朔の瞳ではない。(……私は、こんな顔じゃないッ)心の中で叫んだ。認めなくてはならないのは、分かっている。逃げていてもしょうがない。分かっていても、まだ、心が追いついていないのだ。現実で、必死に現状を飲み込もうとしても、真実はあまりにも膨大で辛くて。逃げ出したくなるのを堪えるで今は精一杯な有様なのだ。なのに、夢でさえ非常な現実をつきつけれ、朔は追いつめれていた。いっそ、何もかも放り出したい誘惑に朔は何度も駆られた。今は崖っぷちに立っていると言っても過言ではないぐらい、朔の精神を支える基盤は不安定だ。(夢のなかですら……逃げられない)逃げてはいけないのは分かっている。(分かっているけどっ……)休む間もなく急速に進み始める現実は、確実に朔を疲弊させていた。「大丈夫?」女性の暖かな声に縋りそうになる。と、同時に酷い拒否反応が起こった。(来ないでッ!)近寄らないで。無意識に後ずさり、距離を取る。今、この女性にそばに寄られたら。会話を交わしたなら、きっと自分はひどい言葉を投げつける。貴方のせいだ、と。あの夢が皮切りだった。貴方さえ夢に出てこなければ、全て、失わずにすんだ、と。酷い、そして醜いやつあたりだ。そんなことを言いたくないのに、きっと自分は言ってしまうだろう。だって、圧倒的に楽だ。責任転換し、誰かを責める方が。だが、例え夢の人物だとはいえ、そんなことしたくない。愚かな行為を一度でもしてしまえば、きっと歯止めの利かなくなる。現実でも、愚かな行為をしてしまいそうになる。楽な道に逃げ、誰かを傷つけることで少しでも浮上しようとする。それほどまでに、朔は精神的に弱っているのだ。朔は自身を愚かではない、なんて思っていない。だが、愚かだと分かっていることを分からない振りをして、してしまいたくない。(それに……傍にいてほしくない、何よりの理由は……)この女性が、怖いのだ。漠然とした恐怖が朔を捉えているのだ。この女性、優しげで綺麗な人、の何に対して、怯えるのか分からない。だが、本能が告げる。近寄ってはならない、と。かたかたと震えだす肩を朔はぎゅっ、と押さえつけた。