今日であれから6年ですか。
気持ち的には、まだ2~3年しか経過していないような
ごく最近の出来事のような気がしてならないのですが、
この感覚は多かれ少なかれ、被災地では共通のようでして
多分、津波の記憶が強烈過ぎて、その後の記憶が断片的に抜けてるからなのでしょう。
でも、あの日に園児だった子がもう中学生、間違いなく時は進んでいます。
今日はこれから前進するためにも、ガッツリと
その後の記憶を振り返り、間違いなくあれから6年経ったのだと
自分に言い聞かせてみようと思います。
これは、とある本の表紙になった、大槌町・新港町に津波が到達する寸前
あの時、私もこの場に居ました。
数秒後には波がラッセルのように押し寄せ
建物ごと山間を駆け上がります。
幸い私達は鉄橋よりも小高い場所だったので助かりましたが、
波は線路も乗り越えましたので、そこで津波を眺めて居た方々はお察しの通りです。
今となっては、津波の直後写真も貴重な資料ですが、
あれを夢中で、しかも携帯やビデオとは違う本格的な「一眼レフ」まで用意して
パシャパシャと、しつこく撮り続けるの考え物。
「お前、他にやる事あるんじゃないの?」かと、
あの直後に一眼レフで実に良い瞬間を撮った方々は
やはり普段から、性格に癖のある方が多かったような気がします。
その後の記録本 かんぱぺっし大槌より
左側の白いポール、私の家があった場所です
戻れたのは4日後、分離して助かったであろう「2階部分」も火災で燃えてました
結構な高台、しかも家の隣が避難所だったので、
もしこれが休日だったら、逃げ遅れていたと思います。
もしかして、もしかしてだけど、釜石地区の巨大湾口防波堤が無ければ、
とばっちりで他の地区に、ここまで波が達することは無かったのではないかと、
平田地区の被害の少なさを見るにつけ、そんな事を思った時もありました。
その後の記録本 かんぱぺっし大槌より
左下の青い奴、私の宝船です
自衛隊の方々に「潰さないでくれ」とお願いし
その後、何とか引き上げてはきたけれど
現状は穴ぼこだらけでヒビだらけ。漁師さん達にも、諦めたら?と失笑されました。
それから数年の月日が流れ
根性で直りました(昭和56年式・箱崎造船の18尺です)
材料の購入履歴をみると、修理に3年を費やしています。
何か、だんだんと思い出してきました。
左上のサンバーは緊急物資等を配達していた頃の仕様です。
八戸から来がけの頃の、オートザム・キャロルも写っています。
後は、この間買い直した、災害をテーマにした絶対絶命都市について
1.2含め、6年チョイ前にクリア済み
震災の影響で4が発売中止になり一時プレミア化しました。
私があの直後、意外と冷静でテキパキしていたのは
このゲームの災害マニュアルをなんとなく記憶していたからです。
ただ全く参考にならなかったのは自家用車の件
確か災害マニュアルでは、車は捨てて逃げろとの記述だったような気がしましが
田舎の場合、最初から徒歩では間に合いませんし、
なにより車の有無は、助かった後の生死に関わります。
実際避難所に入れても、あまりの寒さに数人の方が息を引き取りました。
何時何時、何かあっても良いように、
取り敢えず車には防寒着と水、常にガソリンは半分以上、
後は一番復旧が早い「国道沿い」の高台に車で避難。
車さえ助かれば何日かは余裕で耐えられますので。
少し話がずれましたが、船の修理で3年ですので、それ以上の時が経っていることを認識しました。
今まで時間が止まっていたような感じでしたが、今年は色々と前進してみます。