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2004年06月08日
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                           ←(追加部6/16) 
              (注:追伸が下の付属コメント(6月11日13時10分)にあります。)
              (この画面について、付属コメント(6月14日2時4分)~(6月14日19時2分)を参照 )
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 ネット上では簡単に暴言が吐ける。
 政治のように、特定の立場に立ったゲームのようなもの、と現実でも認識されているものならばまだしも。

 ふつうならば人格を軽蔑される。
 ねっとではガス抜きにもなり、ために人が集まることもあるし、親しさの表現だと思うこともある。
 そのために、極端な悪口がコミュニケーションの成功だと思うこともある。

 現実人格は関係ないと思いつつも、実際には、人格実現をしている流れに乗っている。

 そうでなくても、ネットの掲示板会話は知り合い同士の会話を別のものに変える。



 掲示板の「短さをエチケット」とするような場で、信頼しているから気安いいつもの口で書いたものが、リズムも声音もないと違って取られる。
 書き言葉を頭の中で話し言葉に変換するさい、知り合い同士でさえ、相手に似合った雰囲気で完全には変換しにくい。

 ネットでは時間がずれる。効率悪く引きずる。距離をとるのがりこうだと思う。
 つごうが悪いと、電話で簡単に確認できることでさえ、だんまりになってごまかしに入る。
 つごうがいいと、すぐ返事を書き込む。ことばとキーボードが生理的に連動してしまう。

 信頼関係を作る、ということをしっかり知らない子供が、知り合い同士で汚いことばを公開で露出させていたなら、現実の口でものが言えなくなる。


 ネットの文字は、それ自身の脳を形成する。(という自覚がある)
 知り合いの頭の柔らかい、活動的な、更年期すぎの人間を見ても、どうやら同じらしい。
 体のある口でものを言い聞くこととは別の次元の関係になってしまう。

 まして脳細胞が柔らかかったらどうなるか。


 横文字は日本語ではない、という書家の意見がある。
 縦書きは上からの重さを受けて進めるが、横書きにはそれがなく、素速く流れていくと。
 全く賛成だ。 
 (いずれずっとあとで、理論を書こう)

 ちょっと汚めの速書きの横書きは文ではない。文構造・意味の組み立てとして語られない。
 ただ置かれる物・データである。
 本来ことばは発せられた人の時間の中にある。
 しかし物は、時間を超えて事実として残り続ける。素速くぞんざいに書き残されたものが。 ただ気持ちの勢いを根拠にして、真実の実感表現のように。

 それが横書きに似合った表現となってしまう。
 そういう表現に憧れやすい。経験上そう思う。
 ことばが汚くなるのは、それがきつくなるのは、一つには横書きのせいなのだ。




(縦書きの重さから逃げたいというのはあるんだけど。
 だから、横書きの物のように置かれた表現の方がいいと思ったりする。

 しかし、一見より冷静に見える横書きに感情表現をしようとすると、オーバーになる。残ってしまうものなので、大げささよりもきつさの効果が強くなる。
 そして気になる言葉を頭の中で繰り返すときは縦と横との感覚の違いが減るため、書いた意図以上に本来のきつさが出てしまう。

 長崎の事件の被害者が荒らしにあったことを書いたときのいやみ。(週刊誌、抜粋)
 横書きでチラッと見ると、ただの余裕ある2ちゃんねる表現に見える。
 しかし、事情からすれば、明確なけんかではある。
 さらに、細かくカタカナにしていく作業をまねて一字づつキーを打っていくと、ものすごく密度のある軽蔑の塊だ。
 (抜粋の寄せ集めだからそう見えやすい。 サンプルとして出したまで)

 その書き方に慣れている周囲の中では、ただのいつもの記号的な表現だったかもしれない。
 だが、小説家になりたい者にとって、気にして頭の中で繰り返し、相手の感情を探ろうとする者にとって、相手がふだんの表面からは裏のなさそうに見えれば見えるほど、その落差は激しいショックとして感じられるだろう。
 相手とだけの重いけんかと、軽いけんかを人前に出して馬鹿にする言い方とは、質が違う。

 この場合、ふだんの人間関係の量や感覚の違いが、ネット上で増幅されただろう。
 (実際の正確なやりとりは知らないし、事件の真実かというより、ネットの危険の想定サンプルです)


 それはほんとは大した問題じゃない。
 そういうことがあると「公(おおやけ)の常識にしておかないと、摩擦の引き際が取れなくなる」ということだ。
 現実だとネット以上に引き下がれなくなることもあるので、こじれたことをネットの外で片付けるのはそうあてにならないから。 )

 

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 ネットが危険というのはかなりの人が自覚していることだ。危険に無意識に引かれていくこともあるが。
 道具として直接危険とは言えないから、禁じられず云々・・――と言ってる人がいると表現上仮定して、――あほなこと言うな。
 どこが危険かをしっかり分析して、症例広報をするのが当然だ。
 一概に言えないと言って逃げるなら、荒野(原野)自体は悪くないから荒野の危険を語れない、本人の問題だというようなもの。
 それで文明人か。管理というのじゃない、これは原野だ。

 脳の構造に直接立ち入って、しかも他人を意識した空間で、そこから来る時間制約の中、実体という足場もなしに個人の脳を直接さらさせる(自分でさらしてしまう)のが、現在のネットだ。
 相手と自分の間の発言が残って存在し続けてしかも引きずられる関係は、合わせて一つの脳に近いものがある。とくに初期に。匿名でなかったりすると、耐性をつける以前にやられるだろう。

 頭を目覚めさせるコーヒーのカフェインにも致死量がある。
 コーヒー自体にはガンの危険は薄いが、タバコと同時に組み合わすと危険は跳ね上がる。
 冒険者にも、自分の体温がどれくらいになると危険とかの、「客観的知識」はある。

 ネットはいろいろ危険である。 
 危険知識を正しく身につけ、そしてそれ以外の危険を自分で感知できるようにしないといけない。
 危険がすべて本人任せでは、危険を感じても無視しやすい。
 危険はある、現実と同様に、しかし違う形で、相乗効果によって、まだ未知の教えきれないものが。

 ネットの魅力とは、危険の魅力。脳内物質の魅力なのだ。それは仮想現実どころか、未知の現実だ。
 という姿勢をもっておくことが必要だ。





 ・・・・・ネット世界で正しいものが何もなく、ただ生き延びれば勝ちというなら、バトルロワイヤルに似ているのかな?
 

 

 ところで、ゲーム脳というやつよく知らないけど、誰かつなげて書いてくれないかな~ 
  


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最終更新日  2004年06月16日 13時58分21秒
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