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カテゴリ:オーケストラ
今度、エキストラで出演するオーケストラの練習での、本番指揮者の一言。それなりにちゃんと弾けたり吹けたりする人が集まっていると思うのだが、ちゃんとした演奏として足りないものがあるという文脈での言葉だ。
譜面はちゃんと追えていて、音もそれなりに出ているのだが、タイミングも音程も微妙に違う。しかし、問題はそこではないという。例えば、和音進行、調性の変化、自分の音の和音の中での役割といったことまで気持ちが行っていないために、曲のニュアンスがちゃんと表現できていないのだ。 単純に言えば、全員でドミソしか音を出していないフェルマータの音でも、ドミソにきこえないとか、その前に必ず来る「ソシレ」の和音とのつながりがわからないとかいうことだ。 このことは、その作品がベートーヴェンだろうと、ブラームスだろうと、マーラーだろうと、基本は同じだ。もちろん、後の時代になるほど音の動きが複雑であり、繊細なニュアンスの表現が必要ではあり、同じようなメロディーでも音の響きの処理はまったく違うのだが。 そのときの練習は、ブラームスの交響曲第1番。アマチュアオケで何年も演奏してきた人なら一度は演奏経験のある曲だろうという、人気のある曲だ。しかし、曲を何度となく聴いてきた人でも、タイミングや曲の流れ方などは身体に入っていると思われるのだが、和音進行を味わいつつ、さらにどういう味付けをした結果としてその演奏ができあがっているのかまで考えている人は少ないのではないかと思う。ただ譜面をなぞっていても、その曲の求める響きには残念ながら近づけないかなと演奏しながら感じたし、指揮者の指摘の端々にもそういったことが大事だし、できていないというメッセージを感じたのだった。 そういったようなことに気を配ってみんなで演奏することができたら、これはオケも一皮むけると言うことになるのだろう。これは、演奏の場で流れる情報がもっと豊かになっていくということであり、それによってもっとたくさん工夫する余地が生まれてくることにつながる。楽しみ方が、ただ音を出すということではなく、あるいはベートーヴェンの音を出してみるのに参加したというのでもなく、自分から主体的にオケの演奏をつくることに寄与したというものに変わっていくことでもある。 そういうところに持っていくという意味で、しつこく基本的だがもう少し細かいことを言っていくのだという意味で「今年はオケを鍛える」と言ったのだと思う。練習に参加して、いろいろな指示を聞いているとその意味がとてもよくわかった。指摘された後は本当にいい音になるのだが、これを最初から自分でわかってやれるということが大事なのだと思う。 所属しているオケにも同じようなことが言えるなあと思ったのだった。弾く練習ももちろん必要だが、譜面をしっかり読み込むこともそれに劣らず重要なことだと最近特に思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 16, 2011 11:00:51 PM
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