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カテゴリ:光圀の勉強生活
大学院への進学ができてから、この隠居は自らの経験をほかの留日志望の台湾人に教えるつもりなので、ある留日インフォメーションの掲示板でいろいろなことを書いた。しかし、いつもと同じように、いろいろな反論があったゆえに、書く気を失ってきて、書かないようにした。わしは決して反論を受け入れることができない人ではないが、わしが書いたことに反論した人のことからみれば、ただ戸惑う感じがしているのみだ。
まず、ほとんどわしに反論したのは交流協会奨学金の受奨生またはほかの奨学金の受奨生らしい。しかも、まだ留学生ではなく、留学の準備しておいている人だ。要するに、留学している人は留学していない人に、留学の経験を反論されたということだ。さらに、彼らの反論の内容からみれば、ほとんど同じなことだ。即ち、日本語の勉強が日本でしなくてもいいので、留日前に日本語を身につけて、奨学金に応募してから、留日したほうがよいということだ。彼らにとって、進学する前に、日本語学校または大学の別科で日本語を学ぶのは金の無駄だ。 もちろん彼らの考え方は間違いのではない。留日したがるが、経済状況がよくない人にとって、これは一番よい道だと言える。しかし、台湾で日本語を勉強して、交流協会奨学金またはほかの財団の奨学金に応募して、合格した人が日本に来れば、必ずしもゼミで発表したり、論議したり、論文を書いたり、指導教官と論文の内容を深く話し合ったりすることができるとは限らない。要するに、いくら台湾で日本語を勉強したり、一級に合格したり、奨学金の応募に合格したりしても、日本に来てすぐ日本においての勉強についてのことに慣れる人は少ないということだ。わしの東大の博士後期で勉強している先輩もかつて交流協会奨学金の受奨生だった。しかも彼が日本に来る前に、シンクタンクで日本に関しての仕事をしていたので、日本語を勉強する普通の人より、実際に日本語を使うチャンスがさらに多かった。しかし、日本に来てから、わしが言ったすべての問題にあった。結局、先輩は二年間研究生としての生活に経てからやっと博士後期に入学して、院生となった。日本でずっと日本語を勉強しているわしでさえ、日本語が上達となったとは言えない。従って、どっちの道を選ぶのは、人々自らの状況によって決められると言える。しかし、まだ留学していない人に、日本語学校で勉強する必要がないとかと反論されたのはやはり変なことだ。要するに、あの留学していない人がなぜ自らが日本に来た時日本語に関しての勉強などの問題がないと確信するかわしはわからない。 次に、留学していない奨学金の受奨生以外、わしに批判した人の中で、日本語学科を卒業して、現在日本で留学している人がいるらしい。しかもわしに「私の日本語がそなたより上手だから、日本語学校へ行って勉強する必要がない」と言っていた。ただ酷いとかしか感じられない。日本語学科を卒業した人がわしのような独学の人に、自らの日本語がよいと自慢したのは、情けないことなのではないか。要するに、日本語学科の卒業生が日本語学科の卒業生ではない人に比べて、日本語がうまいのは当然なことだと言えるのに、自慢する態度で、日本語学科の卒業生ではない人を笑うのは人をあきれさせたのだ。 そこで、人を呆れさせた日本語学科の卒業生を除いて、その奨学金の受奨生らは自らがあうかもしれないことを意識していないと言える。つまり、自らの日本語に自信を持っているから、安易に日本語学校へ日本語を勉強したほうがよいと考える人の経験を批判した。だが彼らが日本に来てから、日本語によっての辛さが理解できはじめるのだろうか。 友のおかけで、たぶんその連中はこっちの存在が知れるようになったと考えられる。最初から書かないほうがよいと思ったが、自らのブログだから、自らの感想とかかくのはわしの自由だと思って、この文を書いた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.10.25 23:39:35
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