「のぞみはもうありません」 河合隼雄
僕のお気に入りのラジオ番組に文化放送「武田鉄矢・朝の三枚おろし」という10分の帯番組があります。94年開始とありますから、もう20年聴いているわけです。毎週テーマを決めて、鉄矢氏が様々な解説をするのですが、最近は自腹で買った本の中で有意義だったものを紹介するという形態になっています。このブログのカテゴリー「本は友達」で僕が取り上げた本の中にも、ここで知った本が数冊あります。僕の大切な情報源でもあるわけです。今週は鉄矢氏が若い頃から熱中して読んでいたという「河合隼雄」の著作を取り上げています。河合隼雄さんは日本で初めてのユング派心理分析家の資格を得た心理学者・京都大学名誉教授で、国際日本文化研究センター所長、文化庁長官も務めた日本を代表する文化功労者です。「箱庭療法」を日本に初めて取り入れ、心理療法の開拓にも多大な貢献をしました。惜しくも2007年、79歳で脳梗塞のため亡くなりました。その河合氏のエピソードを”名言”とともに紹介していた鉄矢氏でしたが、その中にとても心に残るというか、こころに刻まれる逸話を語っていて、詳しく知りたくなって調べてみたら、「河合隼雄・名言集」に収められているものでした。 「のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、ひかりはあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである。 これを見つけて、僕はちょっと違和感を覚えました。というのは、このエピソードを鉄矢氏はもっと詳しく説明していたからです。曰く「河合隼雄先生は学会の講演のため東北に来ていました。その夜、彼の患者から電話が入りました。切羽詰まった声で『先生、俺、もうだめだわ』という自殺をほのめかすような内容でした。そこで先生は、翌日の講演などおっぽり出して、患者のいる関西へ向け、深夜の新幹線に乗ろうと行動を起こします。しかし頭の一方では、会いに行ったとしても、自分は何を言ってあげられるのだろうと不安になるのでした。何と言えば彼の心に届くのだろうかと悩んでいるまさにその時、『望みはありませんが、光はあります』という言葉が聞こえました。河合先生は、なんと素晴らしい言葉なんだろうと激しく感動したわけです」ラジオで聞き流していた話を再現してみたので正確ではありませんが、鉄矢氏はこのような内容の話を、金八先生のように物語的に語ってくれました。名言集だけをみると、ただのジョークですが(実際、河合隼雄さんは「日本ウソツキクラブ会長」を自認するほど、冗談好きでした)、鉄矢氏の脚色が加わると、同じ言葉が人の命を救う感動のメッセージに代わるのです。河合氏の他の著書に鉄矢氏の述べた詳細が出ていたのかもしれませんが(とにかく河合隼雄は著書が多くて検証不可能なので)、でもたぶん鉄矢氏のアレンジだと思います。以前にも、本の紹介に感動してその本を買ってみたら、鉄矢氏の語った部分はなかったということがありました。鉄矢氏は、番組の録音にあたり、オリジナルを書き写した大学ノートを持ち込むのですが、それについての自分の感想を同時に書いてしまうので、時間が経過してしまうとどっちがどっちだかわからなくなってしまうようなのです。でも、原石となる言葉を、ここまで磨き上げて宝石に進化させてしまう鉄矢氏はすごい才能だと思います。(でも、一つ書き加えるなら、放送では鉄矢氏は「ひかりはないが、のぞみはある」と、逆に言っていました。逆のたとえですが、意味は成立します。僕は新幹線はもとよりほとんど電車に乗らないので知らないのですが、”のぞみ”と”ひかり”とでは、”のぞみ”の方が速いそうです。世の中で一番早いとされる”光”よりも、人間のこころにある”望み”の方が速いんですね。) さて、せっかく「河合隼雄名言集」を開いたので、いくつか紹介したいと思います。 うそは常備薬、真実は劇薬。 〔”真実”は人を傷つけます。人とかかわり合って生きていくなら、”やさしいうそ”は必需品です。〕 思い屈するような心萎える時間こそ、心が撓(しな)っている状態で、重い雪をスーッと滑り落としているときなんだから、それを肯定し自分を認める。ああ、そうか、俺はまだやわらかな、撓う心を持っているんだと感じて、憂鬱で無気力な自分をも認めたほうがいいんじゃないでしょうか。 〔私事ですが、今年に入ってからどうも調子が悪いんです。今年の寒さのせいだと思っていましたが、春になっても良化せず、積極的になれない、不用意なミスが続くなど不調を認識しています。以前、自律神経失調を経験したことがあり、ややそうなりかけている感じはあります。こういう時は焦らず、人に迷惑がかからない程度の最低の仕事はこなすとして、多くを自分に課さないようにしようと思っています。思わぬしっぺ返しもあるから、人の悪口もほどほどにしましょう。おとなしくして入れば、いつか希望の光が下りてくると信じてますから。〕 「右もだめ、左もだめ」と思ったときには、「いっぺんボーっとするか」というくらいのつもりでいると答えが生まれてくることもあるのではないでしょうか。 〔「人事を尽くして天命を待つ」ということもありますが、何もしなくったっていつかは”神様”が決めてくれるものです。焦って混乱してあがいたために、深みにはまって事態を悪化させてしまったってこともありました。思い込みの”わく”を外すには、まず深呼吸です。〕 幸福のために頑張っても幸福は逃げ、目の前の一人の人のために一生懸命になると幸福が訪れる。それが幸福の面白さなんですね。 〔自分が幸せになろうと利己的行動をとると、必ず後ろめたさと更なる欲求が残ります。目の前の人の幸せを考え、利他的行動をとると、神様から充実感がもらえます。自分の損得は微々たるものですが、他人への奉仕の機会は無限です。個人の正義などは狭い基準でしかなく、幸せとは結びつかないものです。〕 冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。 〔辛いとき、悲しいとき、憤っているとき、苦悩しているとき、とにかく無理にでも”笑顔”を作ろう。笑っていると、どんな苦労も楽しくなってくる。楽しくなれば、試練の意味も見えてくる。笑っていれば、心と身体の免疫力が上がってくる。〕 人間の心がいかにわからないかを骨身にしみてわかっている者が「心の専門家」である、と私は思っている。素人は「わかった」と単純に思いこみすぎる。というよりは、「わかった」気になることによって、心という怪物と対峙するのを避けるのだ。 〔人の心と接触すると、必ず裏切られます。本当は、自分の傲慢さが反転して自分を打ちのめすのです。どうしてわかってもらえないんだろうという苦悶自体が、思い上がりなのです。すべてを受け止め赦す覚悟がなければ、人の心に触れてはいけません。〕 「まじめに、真剣に」ということにとらわれると視野が狭くなります。これは一番怖いこと。視野を広げるために一番大事なものは、「道草、ゆとり、遊び」。〔自分は正しい、間違っていない、と胸を張ってもその場だけの決め事。世の中には千の理屈と、万の答えがあります。人の心を傷つけることは、人の寿命を奪うこと。尊大な振る舞いは慎み、いつでも誰にでも、思いやりを持てるようになりたいものです。〕