祝、紫綬褒章受章、桑田佳祐
遅くなりましたが、桑田佳祐君、紫綬褒章受章おめでとうございます。桑田君と僕は同い年で、彼が『勝手にシンドバッド』でデビューした1978年(昭和53年)以来、ずっと生活の中に存在していました。僕が同い年としてよく引き合いに出す、郷ひろみ、江川卓、明石家さんまなどは、みな昭和30年生まれで、早生まれの僕とは生年が一年早く、干支も羊と申で違ってしまっているのですが、桑田は2月生まれなので同じです。誰とも一度も実物に会ったことはないのですが、彼らをまるで同級生のような感覚でいつも見ています。桑田佳祐、およびサザンオールスターズのデビュー期の思い出を振り返っていたら、記憶の糸がほぐれて、彼らの曲とともに若き日の僕の人生が蘇ってくるのでした。 1978年、僕らは22歳。普通なら、大学4年で、桑田は青山学院大学を除籍になり、僕は一足先に國學院大學を除籍になっていました。僕の方は、調理師学校に入り直し、この年、ひばりが丘で「釜飯や」を共同経営で開始します。22歳と言えば、『22歳の別れ』。僕はあの時、それまでおつきあいしていたK子さんと、本当にお別れになってしまいました。初めて結婚を意識した交際だったので、心の傷としては結構なものでした。原因を考えると、どうも僕の人生設計の曖昧さ、行き当たりばったりの浮薄感に、しっかりものの彼女が耐えられなくなったんだと思います。「釜飯や」も自分の意思というより、脱サラをした兄の手伝い程度のものでしたから。今思えば、全く反省すべき指摘であり、あのころの僕は夢想の世界にいて、頭の中が中学生から進歩していなかったかのようでした。恥ずかしながら、当時の僕の夢は、コーヒー喫茶のマスターをしながら小説を書くことでした。後に村上春樹が世に出た時、まじで先を越されたと思いましたもん。こっぴどく振られた僕は、何とか大人への成長を遂げて見返してやろうと思い、BIGになってやろうと心に誓うのでした(カッコだけは)。しかしながら、冷静に自分自身を見つめる能力に乏しかった僕は、結果から見ると相変わらず目先の状況に右往左往される人生が続きます。成り行きながらも'81年『栞のテーマ』のころ喫茶店の店長になり、'84年『ミス・ブランニュー・デイ』のころカルチャーセンターの事務長に就き、ちょっとした実業家気取りをしたりしてました。周りの支えで成立している待遇を、感謝も知らず慢心していたことが、後の転落を呼び込むことになります。しかも、何度も。転機となった年、『真夏の果実』『涙のキッス』『奇跡の地球』・・・いつも桑田の歌声が聞こえていました。痛い目に遭って、次のチャンスにまたつけあがり、突き落とされ、またのぼせ上り、蹴落とされ・・・。ついに'05年『TSUNAMI』の年、”うつ病”になって、どん底に放り込まれました。それから新たな出会いと経験を通じ、やっとわかってきました。人生に必要なのは、「感謝・謙虚・思いやり」なんだということを。今でこそ人生の指針に落ち着きが出てきましたが(と自分で思っているだけかもしれませんが)、このブログにつづられているような考え方ができるようになったのは、50歳を超えたころからだったかもしれません。できればいつか、K子さんに、あの時の非礼をお詫びして、紆余曲折ながらもここにたどり着けたきっかけの人として、お礼を述べたいと思っています。それにしても、あのデビューのころの桑田佳祐を見て、40年近くずーと第一線で活動するミュージシャンだと誰が思ったでしょう。最初にサザンオールスターズを気に入っていたのは僕の親友のJUN君で、彼の一番のお気に入りは『女呼んでブギ』で、その歌詞たるや「女 呼んで もんで 抱いて いい気持ち夢にまで見た Rug and Roll 女 なんてそんなもんさ」というもので、とても放送できるようなものじゃありませんでした。それが紫綬褒章ですから。まさに「継続は力なり」なのです。