生きる覚悟 -観察4 静まる脳-
権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと示したAdam Galinsky氏らは『「権力は必ず人を堕落させる」という概念が間違いであるとしている。リーダーが「視点取得」(perspective taking:他者の立場になって考えること)を習得できることは証明され、「権力は、脱抑制と自己注目という2つのプロセスによって、リーダーの振る舞いに変化を及ぼす」』とある。 また、ミルグラムの再実験の研究者らは電気ショックを与えられる人物の性別と続行拒否の関係は「特筆に値する」と述べている。 これらは多様性を認め許容する知性や品性が問われることを意味しているのだと思う。 開発や研究に携わっているからには高い“知性”を持ち合わせているはず。しかし、不正を行うのは“知的”ではある者が「視点取得」という他者を想う品性若しくは知性につながる何かが足りていないと評価できるだろう。それは、個人に都合のいい倫理観というのは異なると考える。(ここでは“知性”と明記したが、「生きる覚悟 -“反応”する時間-」での記述で“自分をコントロールする科学的知識量(これを知性と記そうか迷っている)”としたのは、この疑念があったからである。) “知的”要素に“品”が伴うのが“知性”であり、“知性”ある行動が“品”として現れる。それにより“感じる”ことのできるのが人間性(人格)(パーソナリティー)ではないだろうか。性格(キャラクター)とは異なり、階層的なものではないだろう。 ただし、品性には上品・下品と二元的表現が存在している。それは、“場”の認識によるのだろうと考える。限られた空間、作法・マナーが求められる場面や職業の現場での資質が求められる“場”において相対的に“上・下”と表現されるのだろう。〇〇道と称されるようになると、作法や流儀に目くじらを立てたりする人の行為を上品と感じるかというと何か違う気もするという“感性”が働く。例えば、専門家と称するものが専門家面(ヅラ)する行為に違和感を覚えるようなもの。話題に対して、専門家としての葛藤が、謙虚に見えて品位を感じるのだと思う。作法・マナーを教えるものが、知らない人を下品と貶すのは本末転倒だろうし、この“笑い”が分からないなんてセンスがないと芸人が観客に“受け”を強要するようなものだ。 一部に見られるバラエティ・お笑い番組の批判は、特に個の能力を否定しているわけでもなく、権力を持った者の押し付けのような番組制作に辟易している一面を語っていると読めるのだが、“笑い”に関する専門家(落語家)が反応し噛みつくのを見かける。 “笑い”も多様化している。その“場”において高尚・卑下は生じるかもしれないが、大衆演芸と称される自らの生業の知識をひけらかすのは、知的に見せる芸(ネタ)でない限り品性ある行動とは思えない。でなければ感情的であるだけで、理性ある行動とは感じることができない。影響力を得たことによる権威者的反応であり“笑い”にもならない。芸人の地位を高めたと評価され、いつしか芸人が崇高であるように自惚れ、カリスマと称されているタレントの擁護に向いている。 まさしく、“力”を得たことによる「視野の狭さ」、「倫理的な過ちを正当化しやすくなる。」という行動にみえる。 こんな観察を、整理している間にも、「一般の方々と我々は違うんです」と見出。 重要性のある報道でのことなら渋々でも理解もする。さほど情報量のないバラエティ番組であろう制作においての発言と聞くと、このご時世、無神経で下品にも程がある。 いや、「不適切にもほどがある!」by他社。 脳がヒートし視点を見失っている。少し、落ち着こう。(黙祷)