異人さんに、あたしたち日本人の感傷を伝えるのがダイバーシティじゃない?
何だか『パプリカ』って凄いことになってんですね?「Foorin team E」さんじゃ、英語で歌って「Foorin楽団」さんはタップダンスの上手な少年が盲目のドラマー少年を誘ったとか、誘わなかったとか、ネットニュースで見たような?これもそれもいわゆるダイバーシティ(多様性)の模範例なんですか?まず楽曲の英語バージョンで「パプリカ」を世界中に広めたいのか?どうだか、知りませんけど。ただ♪パプリカ、花が咲いたら♪って部分は♪Paprika.when our flowers start to bloome♪でいいの?あたしあんま英語得意じゃないけどそこそこ意味は分かるんだよ?…日本語バーションも聞いているし。けれどそもそも英語に♪start to bloome♪って表現があるのか?いかにも和製英語って感じがしませんか?それに♪I will run to you.through the forest (where we played).singing songs (we made).and I will full both hands with flowers (along the way)…♪ってとこでこのカッコの中って日本語バージョンにはないよね?日本語バージョンのただ♪並木を抜けて♪が、どうして(一緒に遊んだ)になるんだ?ただ♪歌を歌って♪であって、(一緒に作った)なんて言っとらんだろう?で。♪手には 一杯の花を抱えて♪の花が、いつ、(その道端)のお花になった?なんだか和製英語に、どんどん尾鰭(おひれ)が付いていつの間にやら全く別物になっちゃうかも?…それも多様性なのか?たとえば将来的に。韓国語バージョンも作られて。いつの間にやら慰安婦のお婆さんたち、大変だね?可哀想だね?とか強制労働のお爺さんたち、大変だったね?悔しかったね?とか。勝手に付け加えられて歴史同様にまるで別物に捏造されたとしてもそれも多様性の範疇なのかい?そんで最後は♪Rain or shine,we'll find a way to play again another day.let's come together now,point our fingers to the sky♪ってどう考えたって♪心遊ばせ あなたに届け踵(かかと)弾ませ この指とまれ♪では、ないよね?そもそも♪この指とまれ♪って習慣と言うか、伝統と言うかそういうの英語圏にもあるんだろうか?なけりゃそもそも論として伝わらないからそりゃ♪みんな揃って、お空を指しましょうよ♪にもなりますよ?で。日本語バージョンとは内容が全く違う、どころか肝心要の韻(いん)を踏んどらんじゃないか?こここの歌で、一番に重要でしょう?たしか英語版の短歌とかあったハズからいまや韻の踏み方くらい英語の習慣にもあるんじゃないの?なけりゃ五言絶句(ぜっく)とか七言律詩(しちごんりっし)とか英語圏の東洋文学部で漢詩の研究なんか、できないでしょう?どうせ日本語バージョンとは、まるで違う風に歌っている部分でしょう?だったら肝心の韻を踏むことこそきっちり伝えたい!と創るのが…多様性じゃないのだろうか?そして。市民団体さんに、メチャンコ叱られそうですけど。盲目の少年ドラマーさんとか、両手がなく、足でDJさんとかあえて出さなくちゃならないのでしょうか?大むかし福祉がらみのセミナーか何かで講師先生のお話です。私が初めて重度障害者施設にお手伝いで行ったとき目の前で子どもがベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べているのを見て思わずトイレに駆け込んで戻しちゃいました。すると施設の職員さんからもう、二度と来るな!とか、ど叱られたとか、どうとか。きっと講師先生は福祉に立ち向かうなら甘ったれた心根じゃなくきっちりかっちり覚悟が必要だ。みたいな福祉現場の心構えを言いたかったのでしょうけど。べつに目の前のベチャベチャ食べるガキの頭を張り飛ばしたワケでもなく。その場でゲロを吐いて、周りに迷惑をかけたでもないワケですよ?ひとり便所に駆け込んで、ゲロを吐いたんでしょう?それのどこが、どう悪いんだ?あたしには理解できなかったのですよ?と言うか。目の前で子どもがベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べている、ってそれまでとはまるで異質の文化に直面して。それでも福祉に立ち向かう覚悟があれば何が何でもみんな画一的に同じハズだからと1ミリも動じることは許されない、とする発想こそよっぽど一方的・片務的で多様性がないような気がしませんか?食堂の目の前で、ベチャベチャに溢(こぼ)しながら食べている子どもが居ていいようにまるで異質な文化に直面したらいきなりトイレに駆け込んで、ゲロを吐くボランティアさんも居ていいのが、道理じゃないのかい?あたしはべつに重度障害のお子さんを、どうこう言いたいんじゃないですよ?ただ彼らを、あまりに、みんなと同一視し過ぎるあまりある光景に生理的に馴染めない人を、問答無用で排除しようとするのがあなたがたの普遍的で一般的な多様性なのですか?って問いたいのですよ?たとえばアキバ・グループさんなり、坂系グループさんなりにイケメン・ジャニさんがひとりもいないのは男女平等や男女雇用機会均等法に抵触するか?てぇとそうはならないワケでして。そもそもイケメンさんが見たいならジャニさんなり、エグザイルさんなり、そっちを見ればいいじゃん?ただただそれだけのお話ですよね?だから盲目の少年ドラマーさんや、両手がなく、足でDJさんが見たいならそういうバージョンを見ればいいのであって。何が何でもそうじゃなきゃダメですよ!ってのはそれダイバーシティ(多様性)を言っているようでじつはダイバーシティ(多様性)とは真逆な独裁的で独占的な単視眼的発想のような気がするのですよ?そもそも「パプリカ」ってサビの部分はヨナ抜き音階ですよね?けっかあたしたち日本人にはどこか民謡を聞いているような懐かしい心持ちになる?けれどそういう郷愁ってそもそも毛唐(けとう)さんと共有できるモノなんですか?そりゃタンゴやサンバで哀愁を感じる民族性はあるでしょうよ?ただああいうクソ騒々しい中そういうのあたしたち日本人も共有できますか?それ脳髄が、まんまラテンのパリピさんしかムリなんじゃないですか?根っ子の部分は個々人でみんな驚くほど違うんですよ?ただ風土や社会性で同じ民族ならそこそこ同じような感傷を得るようになる部分が少なくないのかも知れません?そういうのまるで無視して。何が何でもみんな同じですよ?同じに扱わなきゃダメなんですよ!こそがたったひとつの正しいダイバーシティ(多様性)なんですよ?ってさすがにちょっと乱暴に過ぎやしませんか?と。ダイバーシティ(多様性)ってその言葉まんまに。そもそもからしてみんな違うんですよ?それを無条件でお互いに認め合いましょうよ?が、スジじゃないのかな?それを大前提にするなら。放っといても伝わるものもあればどうしたって伝わらないものもあるワケで。それを何が何でも伝えなきゃ!って努力は、美しいでしょうけど。そんな大した意味もなく?和製英語に尾鰭が付いたり韻を踏むべく場所で、1ミリも、その形跡がない?そこまで無理をして世界に伝えなきゃならないモノって、一体全体、何なんだい?異人さんにあたしたち日本人の感傷を伝えるのがダイバーシティじゃないんだよ?無理矢理に障害者さん、健常者さんを混在させるのがダイバーシティじゃないんだよ?あんまゴチャゴチャ言わないで。ただただ何種類もの「パプリカ」がある。それだけで素晴らしい?すなわちそれがダイバーシティ(多様性)なんだろうな?と。そこに感心するワケですよ?…あたくしとしては。