ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞
ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞 清泉寮旧館の木造建築。アメリカ式になっている。はじめに 深くは知らなかったが想像はしていた。田渕義雄さんの行動はヘンリー・ソローの森の生活-ウォールデン-に触発されているのではないか、と。田渕義雄さんは早稲田大学文学部哲学科をでている。出版社に勤務していた編集者である。自らの行動し行動を文書にすることをしていたからフリーランスの著述家になった。 「フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦略と詐術のためにフライフィッシング教書」(シェリダン・アンダーソン、田渕義雄訳)という訳書がある。この道に通じていなければできない仕事である。また「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」(田渕義雄)を出版している。当初本人はヘンリー・ソローの森の生活を語っていなかったが25年を長野県川上村川端下(かわはけ)で過ごすころになって触れるようになった。寒山での暮らしをしていてソローを読んでいたはずだ。 ソローの森の生活は2年2カ月であったが田淵義雄さんの寒山の暮らしは30年を超えた。この生活をするなかで田淵義男さんは自らをナチュラリストと称するようになる。現代の貨幣資本主義に対置して自らの暮らしぶりを牧歌主義と述べる。米は自ら作れない。自動車もチェーンソーも耕運機もそうだ。機械を動かす燃料は買わねばならない。そうした費用としてのお金をつくりだすために別の労働をする。自らが動いただけのお金しか手に入らないから収支は低い水準で均衡する。家計のことをたびたび語る。早稲田大学文学部哲学科 早稲田大学文学部哲学科をでて故あって大工になり薪ストーブ設計で右にでるものがいないと自負する人が知り合いにいる。田淵義男さんと同年代だ。その人も著述を業にしていたことがある。自らは最後のトップ屋だと称した。知能豊かで博識な人だった。ヘンリー・ソローを意識していた田淵義雄さん 田淵義雄さんは30年を超える寒山暮らしによって自らがナチュラリストであることを確かめる。田淵義男さんの自問自答の言葉がつづく。決定的な言葉がある「エコロジーは自然を顧みない体制に対する反体制的哲学としてある」と。田淵義雄さんの寒山の暮らしがヘンリー・ソローの森の生活を意識していた。田淵義雄さんの言葉を拾い上げていく。ソロー「自分の貧困を耕せ、物事は変わらない、変わるべきは我々だ」 田淵義男さんは述べる。わたしの座右の書である「ウォールデン、森の生活」の結びで、ヘンリー・デビッド・ソローはこう書いている。「菜園を耕す如く、自分の貧困を耕せ。新しい物を疑え。新しい友達や流行の衣服を欲しがるな。古いモノに向かえ、そこに戻れ。物事は変わらない。変わるべきは我々だ」ガソリン屋の三男は石油とガソリンの臭いが嫌いだった 冬越しの薪の備えは完璧だ、というよりは、それが完璧でなかった年の瀬なんか、この三十数年間一度もなかった。わたしは、東京の下町のガソリン屋の三男として育った。この子供は、石油とガソリンの臭いが嫌いだった。だからこの子は大人になって、薪ストーブを焚くためにこの寒い山に来た。恒例の寒山薪作り祭は11月の第三週末に行われた。総勢10人余りの年中行事だが、もう十年以上つづいている。夢は薪ストーブを焚いてら山で暮らすことだった 今にして思えば、タブチ君は個性的な子供だった。この子供は自分の趣味にしか興味がなかった。盆栽と魚釣りと、それから昆虫採集。季節を巡ってこれらの趣味を渡り歩いた。彼の友達は自然趣味だった。自然趣味には、自然を巡る教養が必要だ。この子供は盆栽と魚釣りと昆虫採集の本と雑誌をたくさん読んだ。「学業はおおむね優良といえるが、協調性に欠けるきらいがある」。彼の通信簿の通信欄にはいつもそう書いてあった。盆栽好きな老人以外には、彼に友達はいなかった。友達が欲しいとも思わなかった。この子供は、人間よりも自然に興味があった。だから、彼は誰も苛めなかったし誰にも苛められなかった。この子供の夢は、いつか薪ストーブを焚きながら山で暮らすことだった。資本主義の最大の欠点は、人が人や人が造った物ばかりと人生を分かち合うようにプロパガンダしつづけることだ。それが、資本主義のテーゼ(綱領)だからである。資本主義にとって、自然趣味は危険な存在だ。東京都国立市で13年間借家住まいをしていた わたしが13年間借家住まいをしていた東京の郊外の国立市あたりは、多摩川の河口だった。縄文人は武蔵野台地の崖の上に住んでいた。干潮時に貝を採取して、美味しい暮らしをしていた。我が川上村には、日本一標高の高い縄文人の村があった。標高1,500メートル、“天狗山縄文遺跡”だ。この遺跡からは、素晴らしい世界遺産的縄文土器が数多く発掘されている。思うに、この村の住人は暑い夏が嫌いな天狗だった。33年前雑木林の片隅に引っ越した、真新しい板張りの家が眩しかった 今から33年前、信濃台風が山と森をピカピカに洗い流した秋に、我々はこの雑木林の片隅に引っ越してきた。電気も電話も水道もガスシステムも間に合わなかった。それを承知でここに来た。真新しい板張りの家が眩しかった。赤いトタン屋根にミズナラの青いドングリが降って、コロコロ音立てて転がっていった。我々は、スバル・レオーネの4輪駆動車にキャンプ道具だけを積み込んでここに来た。渋谷の東急ハンズで買った台湾製の薪ストーブだけが、この家には設備されていた。それで、充分だった。裏庭の谷を刻んでいる涸れ沢に綺麗な水が沸いていた。紅葉した落ち葉を除けて、その水を汲んで暮らした。夜はコールマンのガソリンランタンを灯した。台湾製のフランクリン・ストーブに火を起こして、鉄釜で御飯を炊いた。この山住を始めるまでの10年間、わたしはキャンプ生活に明け暮れていた。この引っ越しは、夏から秋へアメリカのノースウェストを3ヶ月間キャンプ旅行した直後のことだった。だから、電気も水道もない生活なんてごく当たり前のことだった。今にして思えば、電気と水道と電話が来るまでのこの数週間は、超ロマンチックだった。ガーデニングと木工と薪ストーブとフライフィッシングと趣味のある人生を生きた 野望や野心を抱く人がいることが理解できない。自分は我が儘な人間だが、自分に野心はない。あるのは、ちょっとした物欲だけだ。山を下りて街へ行くときには、鏡の前に立って身だしなみを整える。みっともない格好をして人前に立つのが嫌だからだ。自分が身に纏うアパレルを蔑ろにするのはよくない。流行的衣類を着棄てる者は愚かだ。着古して自分の体に馴染んだ衣服を身に纏う快適さを知ることがないからだ。そんなきみは、ショーウィンドウのマネキンにすぎない。自分がどこにもいない。自分は金持ちではないので、安物は買わない。安物よりも10倍高価であっても、心ある商品はそれ以上に安心でロングライフだからだ。ガーデニング趣味と木工と薪ストーブと、それからフライフィッシング趣味のある人生を生きてきてよかった。わたしはクライミングとフライフィッシングを満喫したくてここにきた レトロな雑貨が若者に人気なのは面白いことだ。なぜならそれは発展的な社会化状況として捉えることができるからである。人がレトロな物に興味を示し欲しがることを、後ろ向きなこととして捉える者もいよう。が、大量生産、大量物流、大量廃棄、レトロな物に人の心が動くのは、あからさまな使い捨て的文明にみんながうんざりしはじめたからだ。村のスーパーマーケットであるNANA’Sの駐車場に“Calafate”が出店した。クライマーとアウトドアーのためのショップだ。我が集落の村外れには、小川山の岩峰群がそびえ立つ。日本で一番人気のあるフリークライミングとボルダリングのメッカだ。わたしは、クライミングとフライフィッシングを満喫したくてここに来た。ナナーズでシース・ナイフを見つけ一目で気に入った。7千円だった。フィンランドの遊牧民であるラップランダーの工芸品をプロダクツした商品だ。気の利いた雑貨を輸入する業者にありがとう。この新しいナイフが来て失ったナイフの喪失感は日毎に癒えている。ヘンリー・ソローと田淵義男さん「ヘンリー・ソローの森の生活を、今この山で実践している」心地よさが樵仕事はある 自分の敷地の立木を自分でランバージャックイング(樵仕事)することは、義務であり、また芸術的な行いでもある。それはLandscape としてある。ランドスケープは、庭や屋敷林のリアル風景画を描くことである。ランバージャッキングは楽しい。ランバージャッキングは歓びに満ちている。「ヘンリー・ソローの森の生活を、今この山で実践している」という原初的な心地よさが、この古典的肉体労働には宿っている。この樵仕事は21世紀における至福のアウトドアアクティビティーとしてある。帝国主義への対抗としての牧歌主義 Imperialism(帝国主義)のアイロニー(反語)は何だろう。Arcadianism(牧歌主義)ということなのではなかろうか。アルカディアは古代ギリシャの理想郷。ペロポネス半島中央の高原地帯にあって、高い山々と峡谷により隔絶していた。アルカディアニズムは、自然を敬い自然と美しいハーモニーを奏でながら簡素でロマンチックな田園生活を理想とする理念。ヘンリー・ソローの「ウォールデン」は近代におけるアルカディアニズムの美しい開花だった。これは帝国主義に抗するためのロマンチックで詩的な哲学の書である。ソローは、こう書いてしている。「手を付けずにとっておけるものの量に比例して、人は富んでいる」ロマンチックであれ。ロマンチックであることは、近代合理主義や機械論や、現代における金融資本主義の貪欲さに抗するための対抗軸となろう。牧歌主義という哲学で堅固に武装した田舎者こそアルカディアンだ 辺境でひっそりと暮らす人たち。山に住む少数民族。孤島を愛し、そこから出てこない島民。峡谷の住人。砂漠やハイデザートの遊牧民。アルカディアは何処にでもある。アルカディアンは何処にでもいる。隠棲の庭。それがアルカディアだ。だからアルカディアは人知れずある。アルカディアンとは、牧歌主義という哲学で堅固に武装した田舎者のことである。自然を敬い自然と共に人生を楽しみ、欲はなく、暮らしを愛する者はアルカディアンだ アルカディアは何処にあるのか。花咲く庭があって、パッチワークのような菜園と果樹園があり、どの家の屋根からも煙道が突き出ている小さなコミュニティー、そこがアルカディアだ。アルカディアンとは誰のことか。自然を敬い、自然と共に人生を楽しみ、欲はなく、薪ストーブが燃える暮らしを、こよなく愛する者のことをアルカディアンという。自給自足の生き方と経済自分のためになす古典的肉体労働は昔も今も貴い労働である 林業的労働は古典的な肉体労働である。これは今時貴重な男の仕事だと言える。「世界は誰かの仕事でできている」。樵的労働は、3Kそのものといえる。汚い、きつい、危険。だが、この古典的肉体労働には不思議な魅力が潜んでいる。この形而下的な肉体労働の本質は、実は形而上学的な“悟り”から成っていると思えるのだ。そのことを意識しようがしまいが、「人はどう生きるのか?」という哲学を抜きにして、なんびともこの仕事に従事することはできない。高度にハイテク化された時代だから、そう云う言い方に新鮮さがあるように思える。でも、そうじゃないんだ。昔も今もそうだったのではなかろうか。現代における究極のアウトドアアクティビティーは自給自足的自然生活だ アスレチックジムに通って汗を流す者の人生がわたしには理解できない。彼ら彼女らは、二重に疎外されている。命削って稼いだ金を無駄遣いして、非生産的な運動に汗水流して、削った命を取り戻そうと努力する、ということは、そういうことである。時代の変遷とそこに生きた人生の踏み跡と。わたしはこの30年間、“21世紀における自給自足的自然生活”ということに興味がある。なぜなら、現代における究極のアウトドアアクティビティーは自給自足的自然生活だと信じるからある。30数年間に及ぶこの山暮らしは、毎日がアウトドアアクティビティーだった。わたしは、この国ではちょっとは名の知れたフライアングラーだが、今では食べない魚は釣らない。哲学士田淵義雄さんの思索自然に寄り添って質素で無名であることは成熟した野心だ 山で暮らしましょう。山で薪拾って薪焚いてクリーンな暮らしをしましょう。我々はもっと低収入でいい。しかし、もっと豊かに暮らそう。貧富の相違は、ただ心の有り様の問題。我々は自然に寄り添って、質素で無名であることを成熟した野心だと思おう。進歩を疑え。我々は今、文明の転換点に立っている。「わたしの人生はとても質素なものだと感じる。簡素さと、安価な物と、質素をわたしに与えよ」(Thorseau’s Journal 1856年)共存共栄、棲み分けが自然界の根本原理だ 世界はまだ、フランシス・ベーコンの人間中心主義的自我に取り憑かれている。帝国主義とは、「自然は人間に隷属すべきもの。科学技術をもって自然界を支配することが、人類の使命だ」とする考え。この考えは、「優秀な民族や国家は、他の民族や国家を支配し、服従させることができる」という覇権主義を正当化する。生存競争。弱肉強食。適者生存。これらの恐ろしい言葉が世界を陰鬱なのもにしている。共存共栄、棲み分けが自然界の根本原理だと理解することができれば、世界は一瞬のうちにピースフルになるだろうに。功利主義。立身出世。功名。そして拝金主義。だが人生は夏野行く牡鹿の束の間の夢。自然を敬わない人類の繁栄も、またそうだろう。材木は大気中の二酸化炭素を封印した炭水化物だ 「薪拾って、薪焚いて、暮らすんだよ」コールドマウンテン・ボーイズの一員である阿知波さんがそう言ってる。林野に打ち捨てられた間伐材や倒木。野原や河川敷きに転がっている丸太。これら“木”と呼ばれる炭水化物は、酸素と水を消費しながらゆっくりとした酸化過程を経て土に還っていく。その木を薪にしてストーブで焚く。それは、この酸化過程を急激になすということだ。よってストーブの煙道から排出された二酸化炭素はゼロとして捉えられる。緑の立木から作られた薪を焚くのも同じことだ。樹木は、林床の養分に富んだ水と二酸化炭素と太陽光線で驚くべき光合成をなし、炭水化物を形成する。これが材木である。材木は大気中の二酸化炭素を封印した炭水化物としてある。それを焚いて排出された二酸化炭素は、もともと大気中にあったそれに帰っていったのだ。里山の木を焚くということは、みんなで自分たちの環境を整えるということでもある。「余命幾ばくもない齢ならば、ケチってる場合じゃない」 エレクトロニクス(電子技術)と合成物質の洪水のなかにあって、自分でランバージャッキングして、それを主要なエネルギーとして生きるということには感動的な確かさがある。化石燃料や電気と違って、木には確かな手応えがある。「これは本物だ!」という直感的な閃きがある。木を焚いてみれば、自然との根本的な関係を回復しようとしているという実感がある。Real Intelligence; グレンスフォシュのカービングが、10年間工作室の壁の飾り物になっていた。「余命幾ばくもない齢ならば、ケチってる場合じゃない」。そう思って、この高価なハンドアックスを粗朶木のチョッピングに使ってみた。我発見せり。これは世界最高の素晴らしいハンドアックスであることを報告したい。「どう最高なんだ?」って。使ってみれば、すぐに分かることさ。たかだか死んでいくまでの人生の一日を今日も木工で暇つぶしできてよかった 思うに、真に役立つ情報は情報化され得ない情報です。それは自由に生きて汗水ながして自分の筋肉に訴えてしか得ることのできない情報のことです。そういう情報は、誰もが共有できない。時に誤解的に危険を伴うからである。不自由の裏側は自由。不自由の中にこそ自由があります。薪ストーブは不確かで不自由な暖房器具であり調理器具。それは現代文明においては信じられないほどアナログな道具。だからこそ薪ストーブには大いなる自由があります。たかだか死んでいくまでの人生の一日を、今日も木工で暇つぶしできてよかった。(2019年1月大寒)5千年前は温暖だった、高冷地の八ヶ岳山麓には多くの村があった 縄文時代は、一万数千年つづいた。縄文文化は、主に東日本と北日本で栄えた。その中期にあたる5千年前は、特に温暖だった。高冷地である我が八ヶ岳山麓には多くの村があり、繁栄していた。芸術性の高い土器が数多く出土している。五千年前の温暖化は、どうしてだったんだろうか?。五千年前なんて、つい昨日のことだぜ!。なのに、その理由を誰も説明してくれない。グローバリゼイションとは金融資本主義者による地球規模的植民地化のことだ 経済のグローバリゼイションとは、金融資本主義者による地球規模的植民地化のことである。わたしは、キリスト教的原理主義者の哲学書を読んだことがある。アジア人には到底受け入れがたい憂鬱で恐ろしい書物だ。アメリカのネオコンとかティーパーティーの輩は、このような書物を教科書としている。終末論を前提とした西欧文化至上主義者の書物だった。自分は悲観的楽観主義者であり原理的修正主義者だ わたしの頭脳は単純なので、物事を単純化する原理主義に傾く傾向にある。わたしはアイロニーカル(皮肉)な笑い好きなので、悲観論や終末論は好きになれない。自分は悲観的楽観主義者であり、原理的修正主義者だ。原理主義者は修正主義(revisionism)を批判する。だが、木工を30年近く嗜んでみれば、物作りの現場はいかにスマートに修正するかということなしには成り立たない。大切なことは原理(理想)と修正(現実)のバランスなのではなかろうか。バランスが全てだ。我が惑星には、その誕生期に巨大な隕石が激突した。で、地球の地軸は傾いた。その後、月の引力が地軸の傾きを23,5度に固定化した。だから、この惑星には四季がある。月は地球の周りをぐるぐる回っているんじゃない。地球と月は絶妙なバランスを保ちながら、手に手を取り合って我らが銀河をランデブーしているんだ。森で枯れ枝を拾い集めて焚き火の炎を見ていよう 人生は夢と現(うつつ)のバランスとしてある。憂しと見しこの世の現が憂鬱でなものであればあるほど、人は何か面白いこと楽しい夢を生きて、そのバランスを保たなければならない。今はね、憂鬱な現が楽しい夢を凌駕している時代だ。では、どうしたらいいんだろうか。現は現だ。なるようになるさ。金融資本主義者の夢なんて、下劣なもんだよ。みんなで、笑ってしまおう。革命を夢見るのはロマンチックかもしれないが、その夢の後先はいつも憂鬱じゃないか。それよりも、何か面白いこと楽しいことをこっそりと楽しもう。パソコンのネズミと遊んだり、スマホのモニタースクリーンを指で撫でているよりも、森で枯れ枝を拾い集めて焚き火の炎を見ていたい。そう思っているんなら、今すぐそうすべきなんだ。「自由とは偶然性を尊ぶこと」と哲学学士であるタブチ君は考えた そこで、重ねて“自由”について考えてみた。思うに「自由とは偶然性を尊ぶこと」なのではなかろうか。哲学学士であるタブチ君は、そう考えた。偶然を大切に思うということは、自分の感受性や直感を信じるということだからである。自由からの逃亡。GAFA。グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル。今あるスマフォ現象は“風俗”として捉えることができる。それは、誰もが自由から逃亡したがっている社会現象のことである。「風俗とは、直近的未来の社会化状況を予見する社会現象として顕在化する」という考えが風俗論の教えだ。風俗論は哲学としての社会学の広大なフィールドとしてある。皆さん、イゾラドの自由生活を思ってみましょう。自由とは好んで偶然に身を委ねることです。SNSや検索サイトって何なのかを、皆さん考えてみて下さい。わたしは、携帯を持ったことのない老人ですが、不自由を感じたことはありません。旅先にだって、公衆電話はあります。携帯なければ、携帯料金はフリー。どうでもいい電話に呼び出されることもなし。高緯度の地では夏の夕暮れを楽しむ、暮れなずむころに就寝する 高緯度地方で夏を暮らしたことがある。日本の北限は北緯45度33分。北米ならUSのニューイングランドとカナダの国境あたり。高緯度地方の夏は素敵だ!。早朝はウールのカーディガンを羽織るほど肌寒い。日が高くなるにつれて気温が急上昇していく。午頃には夏日になって、社長も従業員も、みんな半ズボンとTシャツ姿になる。午後になっても気温は上がりつづける。しかも高緯度地方の昼間は長い。サマータイムということもあって、夜の十時まで明るい。人々の朝は早い。6時には起きて7時半には出勤。4時に退社し4時半には帰宅。高緯度地方の日輪はいつまでも沈まない。人々は、まだまだ明るい日差しのなかで夏の夕暮れをそれぞれに楽しむ。そして、暮れなずむ夕暮れ時に就寝する。「森からの伝言」が韓国で翻訳出版された Good news!。拙書「森からの伝言」(ネコパブリシィング刊)が韓国で翻訳出版されます。「列島と半島と中国大陸は一衣帯水の地。我々は仲良しになりましょう」。願いがたちまち半島に届いたんです。明日が見えていた時代なんてなかった 明日が見えない時代だ」。みんながそう言う。まだ若い人たちには、特にそうかも知れない、と思わないでもない。「明日が見えていた時代なんてあったことがあるんだろうか?」と思う。わたしは、文学部の哲学科の学生だった。就職の窓口だったらしい学生課がどこにあったのさえ今も知らない。娑婆と折り合いがつかないことを憂えるな。きみには今少しモラトリアム(待機期間)が必要なだけだ。“三年寝太郎”という昔話がある。三年間なんにもしないで寝てばかりいた太郎が、ある日がばっと起き上げって村のためによい仕事をしたという逸話だ。樹木は超高性能なエアコンである こんな晴れ渡った日は、夏だというのに夜間には冷え込む。日が暮れれば、アンコールに火を入れようかやめておこうか迷う時候が今だ。勢い盛んな青葉が大地の水を放出して気化熱を奪う。で、大気が冷やされるのだ。樹齢五十年のミズナラの樹は、夏の1日に200リットルの水を大気に放出する。1本の樹木は、超高性能なエアコンである。究極のデジタルは自然だ。そして、究極のハイテクは薪ストーブである。寒山で燃やす薪(まき)ストーブこの家には5台の薪(まき)ストーブがある、風呂焚き小屋にもう一台 この家には5台の薪ストーブがある。一台のアンコールとレゾリュート、2台のイントレピット。それから、台所のクックストーブ。実をいえば、風呂焚き小屋にもう一台、薪焚きのボイラーが。だから、薪の長さとその太さはよって積み分けられる。50、40、30cm。三つの薪山に分けてそれは積まれる。自分は自分らしく生き長らえていく 家庭菜園、大工仕事、椅子作り、それから自分のヤードの樵仕事と薪作り。自分たちのためになす自分たちの古典的肉体労働は、昔も今も貴い労働である。それは、時代や金や社会化状況がどうであれ、今までもこれからも自分は自分らしく生き長らえていくんだという決意表明でもある。個性的であることは友達が少ないか、いないかのどちらかである 「個性的で、友達がたくさんいる子供に育って欲しい」若い母親がそう言う。個性的であることは、友達が少ないかいないかのどちらかであることを、この母親は理解していない。だから、人と人の関係が難しくなる。子供の苛めが社会問題になっている。思うに、苛められる側の子供の個性が尊重されないから苛めが起こる。「友達なんかいなくてもいいのよ!」親や周囲の大人はそう言ってあげるべきなんだ。薪エネルギーこそが風呂を沸かす最良のエネルギーだ 薪エネルギーこそが風呂を沸かす最良のエネルギーであり、その湯の高級さ贅沢さに気づいているからこそ、薪で風呂を沸かしている。薪焚きの湯に浸かってみれば、人は温泉に浸かりたいとは思わない。薪で風呂を沸かすことは、損得じゃないんだ。それは、山村における人生のクォリティーに関わる問題なんです。森の片隅に小さな家を建てよう、電気も水道もいらない きみが街に住んでて、自然が恋しいなら、週末遊牧民になることをすすめる。何処か森の片隅に小さな家を建てよう。電気も水道もいらない。そんな土地なら、何処にでもある。買ってしまってもいいし、借りてもいい。Less is more. 森の小さな家にはなにもいらない。オイルランプと小さな薪ストーブがあればね。そこで、なにをするのかって?馬鹿だなー、NHK みたいな質問すんなよ。なんにもしないんだよ。枯れ枝拾い集めて薪ストーブ焚いて、暖かいなー。夜になったらオイルランプの黄色い焔みつめて、ガールフレンドとうっとりしてればそれでいいんだ。薪ストーブは人類が発明した最高の暖房器具であり調理器具だ 「この家は風の音がいいね」そう言ったのはフランス人だった。「風に向かって口を開けていると健康が体の中に入ってくるのがわかる」と日誌に書いたのはヘンリー・ソローだった。経済のあり方には、自給自足経済と消費経済とがある。自給自足経済下では、カボチャやリンゴは自分で育てて自分で消費する。消費経済下では自分の時間と能力を労働力として売り、その対価としての給与を受け取る。マーケットに行ってそのお金でカボチャとリンゴを買う。消費経済は面倒臭いな。物々交換という経済活動も広く行われていた。わたしの村には日本一標高の高い縄文遺跡がある。天狗岳という岩山の肩、標高1,500メートルある絶景の地にその村はあった。そして、数多くの素晴らしい土器を残した。おもうに、天狗岳の住民は陶芸を専らになす芸術家集団だった。近隣に住む仲間が天狗岳に登り、いろんな物と美しい土器を物々交換した。自然はリベラルである。自然は豊かで潔い。しかし、自然は時に手厳しい。人々は、分かち合い助け合いながら暮らした。格差社会とは贈与経済が欠如した社会のことである。薪は自給自足的エネルギーとしてある。そのコストは、立木と林業的肉体労働のコストとしてある。林野のない町でのコストは、運送費が加わるから高価なエネルギーとなる。チエンソーの騒音と腕力と腰にくる重さとソーダストの埃のなかで薪作りはなされる。しかし、この肉体労働は嫌な仕事ではない。そこには、古典的な肉体労働が宿す充足感と不思議な心地よさがある。これは誇り高き労働といえる。薪ストーブは人類が発明した最高の暖房器具であり調理器具だ。(2019/11/27 by 田渕義雄)自分に薪ストーブと木工趣味がなかったら冬は山にはいなかったかも知れない もしも、自分に薪ストーブと木工趣味がなかったら。自分は何をしてこの山の冬を暮らしたんだろうか。もしもそうなら、絵を描いていたかも知れない。冬はこの山にはいなかったかも知れない。IFのない社会には、昨日も明日もない。あるのは今日だけ。朝起きて思うこと、それは今日は川に行こうか森に行こうか?ということだけ。Be Here Now. 今、此処に、在れ。70年代のインテリヒッピーのスローガンがそうであったように、イゾラドは自由を尊ぶ人たちなのだ。ストーブに火がある限り、この家では湯がたぎっている ファイヤーサイド社の“グランマーコッパーケトル”は、いかにもレトロな美しいケトルだ。このケトルの底力には計り知れないものがある。1世期ほど昔に一世を風靡したケトルの生まれ変わりとしてある。薪ストーブのストーブトップや石油ストーブで湯を沸かすために商品開発された。ストーブに火がある限り、この家では湯がたぎっている。料理に、洗い物に、大重宝。大小のケトルを25年間使いつづけたことでプロパンガスのガス代金をどれほどセーブしただろうか。これはエコロジカルな社会的発展としての薪ストーブの未来を占うプロダクツだといえる。このケトルはインドで作られていたが、品質向上のために新潟で作られるようになった。「神はその細部に宿る」。長岡市と燕市のアルチザンにエール。3.3リットルのケトルが18,000円。絶対に高くない。我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円 1年分の薪用の丸太のコストは10万円。薪作り祭の経費も10万円。我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円。安い高いで薪ストーブを焚いているわけではない。しかし、断言することができる。薪エネルギーのコストは、電力や化石エネルギーのコストよりも断然リーズナブルだと。薪エネルギーは、手作りの高貴なエネルギーである。それと化石エネルギーのコストを比較すること自体が、もともとナンセンスなのだが、人はとかく安い高いで言ったほうが納得がいく。我思うに、本当のことを言えば、全てのエネルギーのコストは同価なのではなかろうか。エネルギーの利便性が、そのコストを決定する。電力は化石燃料よりも利便性に優れている。で、エネルギー換算するに電気代よりもガス代の方が安く、ガスよりも灯油代の方が安い。同じ理由で、灯油は薪よりも高価だ。思うに、この家と木工場の暖房を全て灯油で賄うとすれば、その年間コストは100万円に及ぶだろう。薪エネルギーの暖房ほど体に優しい温かさはない それから、一番大切なこと。それは、“エネルギーの利便性と健康は二律背反する”ということである。薪エネルギーの暖房ほど体に優しい温かさはない。また、薪作りほど健康にいい肉体労働はない。薪焚き人は、おしなべて長寿である。絶対にそうだ。薪は、何度も何度も人の心身をあたためてくれる。我が山里の人口は170人。その内70歳以上の高齢者が50人。全員が元気。長野県下でも一番の健康長寿集落だ。ほとんどの人が薪ストーブを焚いている。ストーブで焚いた松茸御飯は美味しい 薪ストーブが大活躍した。ストーブで焚いた松茸御飯の美味しさは、今でも忘れられない。その秋わたしは奥山に分け入って、大きな松茸を10本以上穫ってきた。広葉樹の紅葉がクライマックスを迎えた。落葉松の黄葉が山腹を染めあげようとしている。氷河期にシベリアからやって来たこの落葉針葉樹は、我が山村のシンボルツリーである。日本中の落葉松林の苗木は、この村から供給された。仙人は薪ストーブ焚いて仙人生活を自己満足する 朝から、アンコールに火が絶えない季節になった。夏の終わりと初秋は、なんだか少し寂しい。夢のいた日々に未練が残るんだろうか。しかしこの未練は、ガールフレンドとの別れの間際にすぎない。夏が終わって木々が紅葉すれば、Kiss me as you go ,good bye。ひとつの恋の終わりの解放感と、新しい季節へに期待に心はシフトしていく。秋は賢者の季節。仙人は山住。山住の仙人は薪ストーブ焚いて、仙人生活を自己満足する。誰にも会いたくない。紅葉の季節にはとくにそうだ。わたしは何処へも行かない。だから、誰もここに来るな。自分探しなんて言ってる奴を笑え。自分は自分だ。きみはそこにいて、いつだってきみだ。きみは、独りでいるときが一番きみらしくて素敵だ。薪ストーブは1740年にベンジャミン・フランクリンが発明した 我が菜園の野菜はリアル・オーガニックだが、この家の薪ストーブはリアル・ツールそのものだ。薪ストーブはおしなべてリアル・ツールスだが、なかでもこのアンコールはリアル・ツールスのなかのリアル・ツールだ。薪ストーブは、鋳物または鋼板で造られた自立型の暖炉として捉えることができる。それは、1740年にベンジャミン・フランクリンによって発明された。ベンジャミンは、鋳物の箱に火を閉じ込めることで、暖炉を退行的に進化させることに成功した。暖炉といえば、リビングルームに築かれた装飾的な暖房器具のように思われがちだ。暖炉ではなく囲炉裏を愛用してきた我が国では、特にそうだ。しかし、暖炉は欧米の囲炉裏であり、囲炉裏はニッポンの暖炉だ。その違いは、煙道(チムニー、煙突)を持つか持たないかだけだ。茅葺き屋根の家に住んだ日本人の暖炉には煙道が必要なかった。茅葺き屋根は分厚い天然素材のゴアテックスだ。煙と湿気は屋外に排出するが、雨水は遮断する。ヨーロッパの城主も多くの時間を台所で暮らした 昔、暖炉はキッチンにあった。それは、間口が1メートル以上あったが、奥行きは浅い物だった。水平方向に移動する鉄製の自在鈎が暖炉の隅にデザインされていた。この自在鈎に調理器具の蔓を掛けた。自在鈎は垂直方向にも移動できた。そのことにより、暖炉内の火力を自在に選択することができた。加熱調理の必要が無くなった鍋は、暖炉の炉外に水平移動して、そこから皿に盛ればよかった。リビングルームや寝室にも暖炉はあったが、それはごく小型の物だった。煙道はキッチンのそれと共用された。裕福な家でもこのスタイルは同じだった。金持ちの台所は広く、そこには簡素な食卓があった。家人は多くの時間を台所で暮らした。大きな城に住んだヨーロッパの城主もそうだった。暖炉が燃えて暖かく、食べ物と飲み物が手近にある台所には世間話と笑い声が絶えなかった。金持ちの家や城には贅沢なダイニングルームと客室があったが、それは特別なゲストを迎えるためのものだった。家人も城主も普段は暖炉が燃える台所で暮らして、節約に努めた。薪ストーブは人の心を温め、生きる元気を授けてくれる 暖炉や薪ストーブや囲炉裏のことをHearth(ハース)と言うが、Hearth とHeart (心)同じ言葉だ。ハースは家の中核であり、家庭の団欒の場だ。Hearth and Home といえば家庭のことだ。薪ストーブは暖房器具のことではない。それは、退行的な進化を遂げたコンテンポラリーな暖炉としてある。それは、優秀な調理器具でありエコロジカリーな湯沸かしでなければならない。そしてなにより、薪ストーブは人の心を温め、生きる元気を授けてくれる物でなければならない。樵(きこり)仕事とその収支夏耕冬木、または自由について 寒冷地に住む村民にとって、冬をどう暮らすかは重要な社会問題である。夏にレタスで大儲けした村のファーマーは、冬中炬燵に突き刺さって夏の疲れを癒している。では夏を謳い暮らしたキリギリスはどうしたらいいんだろう。タブチさんの場合には、冬はランバージャッキング(樵仕事)と木工。樵仕事は薪エネルギーの自給自足のためだが、彼にとっては木工のための木材調達のためでもある。また自分で木を伐り、割り乾かし、燃やしてみるということは、自分が木工をなすエリアの木と自然を理解することである。素晴らしい家具や工芸品は、冬が長い高緯度地方や山国や雪国で作られるように思う。心込めて時間を厭わないで、思うがままに冬を切り冬を削りつづける。花も緑もない長い冬。11月。12月。1月。2月。そして3月。神はその細部に宿る。冬に木工や工芸に勤しむ者は幸いである。薪焚き人の労働コストは除かれている 薪エネルギーが灯油よりもそのコストがリーズナブルなのは、薪焚き人の労働コストが差し引かれているためだ。また、薪作りと、薪エネルギーの管理と運搬。そのためのコストと道具のメンテナンス等々。この寒い山で薪を焚きつづけるための設備投資には総額100万円以上かかるだろう。その内訳はこうだ。大小最低2台のチエンソー。数丁の斧。樵仕事のためのコスプレ代。エンジン式の薪割り。薪小屋の建築代。それから、中古の軽トラック。等々。総額で言えば大金になるが、実際は必要に応じてなしていけばいい設備投資だから、さほどの負担ではない。専門店に出向いていって、気に入った道具に1万円札を投資するのは、道具好きの楽しみでもある。わたしのお薦めの斧ははミニ・ハチェットとカービング 薪焚き人にとって斧は不思議な存在感を発揮しつづける道具だ。自分が今、何振りの斧を持っているのかは数えたくない。きっと15本はある。それぞれに個性があり、一つとして手放せない。よくない斧という物はない。グレンスフォシュ・ブルークの斧は、時代を過去に遡ってリプロダクションされた物としてある。スウェーデンは、かつて世界最大規模の林業用斧の輸出国だった。しかし林業の機械化により斧が積極的に使われることはなくなった。そこでグレンスフォシュはホームユースな製品開発にシフトした。それはプロの道具ではなく、アマチュア・ランバージャッカーを喜ばしてくれる手作りの斧としてある。この会社は過去にその活路を見いだした先見性に富む斧屋だ。わたしのお薦めはミニ・ハチェットとカービング。ハンドアックスの21世紀的傑作といえる。田淵義男さんのウインザーチェアー製作そして木工薪焚き人の椅子作り ウィンザーチェアーの座面をシェイビングしている。豆反り鉋(まめぞりかんな)で、その曲面を整えている。根気のいる手仕事だが、曲面の仕上げ的シェイビングは旧来からのこの工法に行き着いた。2014年の夏を、豆反り鉋でカリカリと削っている。この夏は、10脚余りのウィンザーチェアーを仕上げた。7月8月の来る日来る日を木工に興じた。山桜の堅さ、その滑らかさと戯れた。たかだか死んでいくまでの人生の、今日一日を、好きな木工で暇つぶしすることができてよかった。私は1982年の秋に寒い山に辿り着いた、以来30年以上木工に興じている 1982年の秋に、この寒い山に辿り着いた。来たときの道は忘れてしまった。以来、ずっと木工に興じている。フルタイムの木工家ではないので、その道行きはベリースローだった。今もそうである。だが、30年以上木工に興じてみれば、自分の木工術に自信もつき、人に誇れる何かを習得しつつあると自負したい。愛好家は、愛好家であるがゆえに、プロの垣根を心ならずも飛び越えてしまうことができる、ということがあるんじゃないだろうか?。わたしは美しい木工品や椅子の部品になれますという木の囁(ささや)き わたしの木工のルーツは、熱心な薪焚き人である事から来ている。チェンソーで木を伐り、斧で薪を作ってみれば、そこから見えてくる木への造詣が芽生える。「わたしも燃やしてしまうの?わたしを加工して研いでくれれば、わたしは美しい木工品や椅子の部品になれるんですけど」そういう声が、聞こえてくる。わたしの最初の椅子は木工への憧れと祈りによって作られた ウィンザーチェアーを作りはじめた。わたしの木工の出発は、もともと自給自足的なそれとしてあった。最初のウィンザーチェアーは1986年に作られた。薪材である楢の丸太から、チェンソーで座板を切り出した。それを加工し、ドリルで円溝(まるみぞ)を穿った。そこに枝木の脚とスピンドルを差し込んだ。斧で割られてカーブしている薪を加工して、背板とした。最初の椅子は、木工への憧れと祈りによって作られた。それから、憧れが情熱に変わり、木を敬う心がわたしの木工をバックアップした。人類最古の椅子、それがウィンザーチェアーだ 椅子(chair)は背もたれのある腰掛けのことだが、人類最古のそれはウィンザーチェアーだったのではなかろうか。わたしが最初に作ったそれがそうであったように、厚い板に穴をあけて、そこに枝木を差し込んだ椅子、それがウィンザーチェアーだ。スツールやベンチやテーブルも、そのようにして作ることができる。木工品はおしなべて美しい物である。なぜならそこには、よりよく生きたいと願う先人の祈りが宿っているからである。自分の体形や身長に最適な椅子を使え 椅子は、肉体的な家具であり、パーソナルな物だ。自分の体形や身長に最適な椅子に腰掛けるべきである。日本人は、つい昨日まで畳の上で暮らし、椅子のない生活をしていた。で、我々は椅子の価値やその機能に無頓着になりがち。日本人に腰痛持ちが多いのは、それと気付かないままよくない椅子に掛けつづけている。腰痛に悩んでいる人は、先ずもって自分の椅子を見直してみることを助言したい。我々は就寝時間と同じくらいか、それ以上の時を椅子と共に暮らしている。人は、一生の間にどのくらいの時を椅子と共に暮らすことになるのだろうか。そう考えれば、椅子のランニングコストは極めて低廉なものだ。掛け心地を決定する椅子の寸法など よい椅子の分析は、人間工学的な見地から科学的になされている。座面の巾と奥行き。座面の前後傾斜角度。背もたれの傾斜角度とその高さ。背もたれの巾は十分に広く、肩がすっぽりと収まる高さであるべきだ。同じデザインの椅子であっても、座面の奥行きと脚高とのバランスの良さが、その人にとっての掛け心地を運命づける。彼の地のレストランではウィンザーチェアーは常連席専用だった クロスや革張りの椅子は、ウレタンフォーム等の緩衝材をマットにして、掛け心地をソフトなものにしている。緩衝材は平面として張られている。尻と腰は本当には収まっていない。で、掛け心地が不安定になり疲れる。大衆食堂であれ高級レストランであれ、掛け心地のいい椅子に出会ったことがない。食事を済ましたらさっさと帰って欲しいからである。彼の地のレストランで、掛け心地のよさそうなウィンザーチェアーが置かれた一角があった。その椅子が置かれたテーブルに付きたいとリクエストした。そうしたら、断られた。そこは、金持ち的常連の席なのであった。使い手が最適なデザインのウィンザーチェアーを年間20脚、それくらしか作れない 私が作るウィンザーチェアーの座面は、尻の形に彫られている。座板の板厚は43ミリメートル、最深部で25ミリメートル、シェイビングする。フットプリント状にサンダル面を成型してあるビルケンシュトックのそれは、履き心地に優れている。そして、健康にいい。一足一万円以上と高価だが、ロングライフだしサンダルはビルケンと決めている。ウィンザーチェアーの座板の曲面は同じ理屈で彫られる。使い手に最適なデザインのウィンザーチェアーを、その座面の奥行きと脚高を調整しなが作っている。年間20脚ぐらいのそれしか作れない。で、広告はしない。「そういう椅子作り人がいてもいいじゃないか」というのが寒山家具工房の言い分である。日本の木を切り削るのが好きだ、自分の国の木のことが知りたいからだ 日本の家や家具なら、日本産の木で造るべきだ。「日本の木材はやっぱり島国育ちなんだな」。それは、極東温帯アジアの極西太平洋に浮かぶ弧状列島に育った樹木なんです。アジアモンスーンとシベリアからの冬将軍。そして台風。夏期の亜熱帯並高温多湿と冬期の低温乾燥。加えてエリアエリアの多様な気候と風土。大陸育ちの輸入材はクセが少なく大らか。なので、扱いやすい。加工しやすい。国内材はその逆。しかし苦労して仕上げてみれば、国産のそれはそれぞれに個性的で素晴らしい家具になり椅子になる。日本の木は日本人みたいなのではなかろうか。わたしは日本の木を切り削るのが好きだ。もっともっと自分の国の木のことが知りたいからだ。自動車ならびに車社会電気自動車、水素ガス車は走る矛盾 経済成長しつづけなければ、わたし達はまともな暮らしができないんですか。もっと多くのお金を稼がなければ、わたし達は豊かになれないんですか。自動運転の自動車に乗りたければ、バスかトレインか船に乗りなさい。運転手付きだぜ。しかも、コストは低廉。ただし、航空機はださい乗り物。PM2.5と温暖化ガス大量排出のモンスターだ。EV(電気自動車)、水素ガス車は走る矛盾。電気は何からつくられるんだ。水素ガスはもの凄い量の電力からつくられる。日本には200年分の自動車がある、新車は1台も造らなくていい こういう話を聞いた。プリウス1台分のバッテリーに使われるリチュームを抽出すると、30坪の土地が300年間土壌汚染する。塩酸とか硫酸とかで抽出して、猛毒の抽出液はほとんど垂れ流しにされるからである。自分の見解によれば、日本には200年分の自動車がすでにある。これらの自動車を村や町の修理工場で修理しつづければ、新車は1台も造らなくていい。その分、資源は保全され、温室効果ガスは排出されない。イノベ−ションよりリノベーション。レトロな車はいいぜ。余計な物は何にも付いてないんだ。デジタルよりもアナログ。究極のデジタルはアナログだ。デジタルは短命で使い捨て。アナログは職人の仕事。アナログの道具はロングライフ。しかも、簡単に修理修復できちゃう。100年後の人々は100年前の車を誇らしげに運転するんだ。家のベースメントには35年前の二槽式洗濯機がある。作業服を洗濯している。わたしはこの洗濯機が好きだ。モーターの動力を借りて自分が洗濯するからだ。最小限の水と洗剤で、如何に綺麗な洗濯をなすか。それは、水環境に負荷をかけたくないと願う者の、誇りであり歓びだ。お利口そうなデジタルは浪費家。お利口な振りして無駄遣いしてドレインシステムに負荷をかけてる。軽トラックSUBARU サンバー 憧れの軽トラックが我が家に。中古ですけど、SUBARU サンバーです。ポルシェと同じのリアエンジン車。誉れ高き軽トラの名車です。軽トラックが欲しいと思っていた。ずっと、ずっと、そう思っていました。でも、老夫婦二人で3台の車を持つのは、ギルティー(有罪)だと思わざるをえませんでした。シンプルリビングを標榜している身にしてみれば、それは言行不一致なんです。「タブチは嘘つきだ」という誹りを免れ得ないでしょ。タブチ君はずっとステーションワゴンに乗ってます。運転免許を取った時に買った車は、1,400㏄のSUBARUエステートバン。4ナンバーのライトバンと呼ばれていたそれです。今から40年昔、5ナンバーのステーションワゴンはほとんど無かったんです。以来、わたしはずっとSUBARUのステーションワゴンです。今は、8代目のSUBARUであるレガシーのBスポーツに乗ってます。FFベースの4WD車であるSUBARUのステーションワゴンはいい車です。いざというときの貨物の積載容量に優れてんです。また、「全米で最も事故率の少ない優良車種」として、ホワイトハウスの陸運局が認定してます。妻はインプレッサに乗ってました。お気に入りでしたがパワーステアリングを壊してしまった。妻は半径50km以内のドライバーなので、軽乗用車で十分です。で、SUBARUのR2を買うことにしました。わたしは軽トラのエンジンをパタパタいわして村のオッサンになる わたしは、Bスポーツを妻に譲るつもりだ。妻のR2は軽乗用車の人気車種。「いつでも買い取ります」。長野スバルの担当者もそう言ってます。つまり、早晩この家の車はレガシーとサンバーの2台になるということです。わたしは、いつも軽トラのエンジンをパタパタいわしている村のオッサンになります。だから、陪審員の皆様には「ノット・ギルティー」の判決を。リアエンジンゆえにサンバーのエンジン音はクワィエット。でも、リアエンジンゆえにトレーラー・カプラーボールが付かない。そう、500キログラム以上あるエンジン薪割り機を牽引したくて、軽トラを買ったんですから。軽トラ用トレーラー・カプラーボール・システムを紹介します。木と鉄と、これは19世紀的な美しい道具でしょ。木工家ゆえに作り得た傑作です。軽トラの車窓から見えてくる村の風景は新鮮 軽トラックを運転してみて、わたしは新しい事を知った。Total confusion disillusion New things I’m knowin‘。この村に移動してきた頃に好きだったニール・ヤングの懐かしいバラードが口をついて出た。中古の軽トラ買って、わたしは30年かかってやっと村民になった。「これでいいのだ」と、思った。軽トラの車窓から見えてくる村の風景は新鮮で、わたし感動しました。幸せの青い鳥はあなたの庭に住んでいます。幸せの自動車は軽トラックにあります。川上村川端下の寒山の庭の四季季節の旋律 ビバルディの「四季」の六月の舟歌 青葉の谷を渡り、エメラルドグリーンの山腹をたなびくように、たおやかな旋律が流れていく。これはチャイコフスキーのピアノ組曲「四季」だな。そのなかの六月“舟歌”。夢見るように青葉の季節をまどろむように。野に山に水辺にメロディアスなピアノの旋律が流れていく。李(スモモ)の白い花が咲いて、大山桜がピンクに咲いて、小梨(ズミ)が咲いて、林檎が満開になった。アカシアの蕾がふくらんでいる。今日パルナシアン(うすばしろちょう)を初見した。エゾハルゼミが歌いはじめた。ウワミズザクラの白い花穂が陽に輝いている。この花穂の蕾を塩浸けにする。それを“アンニンゴ”という。雅な香りがある。白米に振りかければ食が進む。三十年前に埋めた黒百合球根の子供が今年も花をつけた 流蜜期。野に山に花の蜜が流れる季節。木花が咲き競う春から初夏を、養蜂家はそういう。蜜蜂の巣箱に蜜が溢れる時だ。我が庭の草地はサクラソウの盛り。黒百合が咲いている。三十年前に埋めた球根の子供が、今年も花をつけた。ムスカリとタンポポがまだ咲いている。忘れな草が秘密の花園をつくりはじめた。木立の木洩れ日をあびながら、すみれが花盛り。菫はサラダのトッピングにすればロマンチック。寒山早春賦 「厳しい山の冬を耐えて、もう我慢できなくなって春一番に芽吹くアサツキやエシャロットやフキノトウ。それが“気”だ。その気を食べなさい」気功の先生がそう言っている。寒山早春賦。春が、すぐそこまで来ている。日本一標高が高い山里に巡ってくる春の歓び。我が領土のオオヤマザクラが咲くのは、5月の連休の後だ。林野に人手が入ったことで、その森の生態系が劇的に変化する 大きく育った木を倒し、それを薪にして燃やすということは、一種の社会契約といえる。つまり、立派に成長した木を伐るときには、環境と地域社会への十分な配慮が為されなければならないということだ。自分の年齢ほどの大きな樹木にチエンソーの刃を当てるとき、ランバージャックの心には祈りのような感情がよぎる。伐られて燃やされる樹木は生け贄的とも思えるが、実際はそうではない。優勢を誇っていた樹木が伐採されたことで、林野には衝撃が走り、その後一瞬静まりかえる。林野に人手が入ったことで、その森の生態系が劇的に変化する。窮屈だった樹間が開けて、明るい日差しが差し込む。風が通り抜けていく。林床にも日差しが戻ってくる。残された木々は、待ってましたとばかりに生長する。思うに、それが心ある伐採である限り、森林の除間伐は人が森林と係わる理想的なあり方だ。大草原をつくるには ユウガギクにミドリヒョウモンが来て、吸蜜している。このタテハチョウは、初夏に羽化して暑い夏を夏眠する。九月に目ざめて、これから産卵する。幼虫は一齢で越冬する。そして春にスミレを食草として世代を繋いでいく。ツバメシジミ アカツメクサの花にツバメシジミが来ている。このサファイヤブルーの小さな蝶は、開帳25ミリメートル。一番小さな蝶といえる。何処にでも、また春から秋遅くまで、ごく普通に見ることができる蝶。でも、みなさんはこの蝶の美しさを知らない。人はどうして、足元の星を見ようとしないのだろうか。この小さな生き物の目線になって、アカツメクサの花まで身をかがめて観察してみよう。そうすればこの蝶が、世界で一番高価なサファイヤよりもずっとずっと美しい創造物だと気付くだろう。蜂蜜が採れる村の自然は特別だ 蜜蜂は偉大だ。一生を花から花へ飛び渡って、顕花植物の花を交配し、甘くて甘い蜂蜜を残す。そして、その翼を土に帰していく。「養蜂家が蜜蜂と共に暮らす村の住民は長寿だ」という揺るがしがたい統計がある。蜜蜂さんが集めたマウンテン・フラワーの花蜜をなめて、ああ美味しい!。蜂蜜は村の婆さん達の長生きサプリメント。そんな蜂蜜が採れる村の自然は特別だ!。ハイランドの村では、水も空気もまた美味しいんでやんす。大きな声では言えませんが、娑婆の排気ガスとか大気に漂う諸々の有害物質は、標高800メートルまでしか上昇することができない。この家と庭は標高1,400メートル以上。上高地と同じくらい。PM2.5の雲は、ここよりも600メートル下界に。その分、ここは高冷。でも、薪ストーブがあるもんね。そして山里は薪エネルギーのペルシャ湾岸。しかも、このエネルギーは元祖サステーナーブル。我が山岳エリアのそれは、ここで消費するそれの数千倍数万台の勢いで再生産されているんだ。蜜蜂に寄り添う庭であれば、と思うようになった いつになく暑い夏だった。椅子作りに精を出したということもあった。で、夏の間、庭仕事がままならなかった。気温は30℃まで達した。下界にくらべればさほどでもないらしいが、高地の直射日光は強烈。太陽に近いもんね。そんなわけで、菜園も芝地もいつになく夏草が生い茂ってしまった。圃場はさながら自然農法状態に。にもかかわらず、作物の出来はよかった。我が庭の夏がこうなったことには、この庭の主の心境にある変化があったことも報告しなければならない。それは、蜜蜂のせいだ。庭に蜜蜂の巣箱を置くようになって、ごく自然と、蜜蜂に寄り添う庭であれば、と思うようになった。来年の夏、庭は蜜蜂とクローバーの草原になっていくでしょう 雑草という名前の植物はない。季節が巡れば、どんな顕花植物も花を咲かせる。花蜜で蜜蜂を誘う。菜園の野菜もそうである。「夏草が生い茂る庭を意図的に演出していくこともまた、ガーデニングのあり方なのではなかろうか?」と、タブチ君はご都合主義的に考えたのだった。そこで、思い描いた景色は夏の草原だった。夏草が生い茂って、草花が咲いている。ハイカーが往き来する踏み跡が、そこにある。自分たちが往き来するに便利なよう、そこの芝だけを芝刈り機で刈った。蜜蜂の蜜源であるシロツメクサの種をそこらじゅうに播いた。芝生をクローバーのそれに替えようと考えている。そうすれば、芝刈りの手間も軽減する。大草原をつくるには、蜜蜂とクローバー。庭の面積は大草原にはかなわないけど、空想することができれば大丈夫!。来年の夏、この庭は蜜蜂とクローバーの草原になっていくでしょう。中秋の月は雲間から差し込だ、この秋はじめてアンコールに火を入れた 中秋のそれは、月に群雲。雲間から差し込む明るい月光が美月さんだった。秋分の日は過ぎた。今夕、この秋はじめてアンコールに火を入れた。岩魚を白焼きにして、甘露煮を作りたかったからだ。ダンパーを閉じて、コンバスターモードにした。天板の上にトリベットを重ねて、焼き網に岩魚を並べた。岩魚が焦げない遠火の輻射熱で、岩魚をじっくり焼き枯らすんだ。それから後日、甘露煮にする。金峰山川の流れに毛鉤振る夕べも、もうこれっきり。10月になれば、渓流釣りは禁漁に。今夕、鹿の声を聞いたような気がする。ホトトギスが夏を謳っている 青葉の季節。時鳥(ほととぎす)が夏を謳っている。落葉松の梢のてっぺんで、声高らかにそう啼いている。夏山で、ハイテンポなこのトレモロを一度聴けば、誰でもがそれが時鳥の鳴き声だと理解するだろう。東京特許のトレモロを50回くらい繰り返して、時鳥は飛び去った。西行のころはホトトギスはカッコウだった 郭公(かっこう)が歌いはじめた。初夏の日輪が子午線を登りつめようとしている。郭公の歌はいいな!。パキンと晴れ渡って風のない日。何頭ものパルナシアン(うすばしろちょう)が夢見るように庭を舞う昼下がり。忘れな草の瑠璃色が木立の木洩れ日の中でまどろむ時。「時鳥きく折りにこそ夏山の青葉は花におとらざりけり」西行(山家集)。我が愛する詩人、西行が生きた平安時代後期(12世紀)には、ホトトギスはカッコウだった。そうであればこそ、この歌は日本一見事な初夏の詩である。今朝6時の外気は3℃だった、9時を過ぎると居間の温度は夏日のそれに サンルームに夏の朝日が満ちた。スカイライトから夏日が差し込む。毎朝6時に起床するので、早朝は肌寒い。剪定したラズベリーの枯れ茎でアンコールに火を起こす。で、9時を過ぎると居間の温度は夏日のそれに。ストーブが燃えているのに、サンルームの網戸から涼しい風を呼ぶことになる。高冷地の初夏は、晴れれば毎朝がこうだ。今朝6時の外気は3℃だった。ゴールデンウィークの後に雪が1寸積もった。その翌朝には、天水鉢に薄氷が張った。この季節、昼夜の気温差が20度を超える日は珍しくない。わたしは高冷地の夏を愛してます 標高約1,500メートルにある我が山里のそれは、北緯44度の平地の夏といったところかな。我が山村は北緯36度だから、夏至の頃でも8時にはもう釣りができない。昼間の長さがそれ程でもないことをのぞけば、ここの夏はニューイングランドの北部エリアのそれと同んなじなんです。わたしは高冷地の夏を愛してます。信じられないほど麗しい5月6月7月がこのハイランドにあればこそ、わたしは此処にいる。夏は早寝早起き 夏は、早寝早起き。9時に寝床に就けば6時に起きても、睡眠時間はたっぷり。寝るは天国。娑婆の阿呆は夜起きて働く。蜜蜂さんは早寝遅起き。雨天休業。曇天、濃霧、風の日は半ドン。半ドンのドンはオランダ語のドンタク(日曜日)のドンです。標高1,420メートルの春はにぎやか 標高1,420メートル。高冷地の春は日捲りのカレンダー。ツグミが帰ってきて、芝草の庭をぴょんぴょんと歩き回っている。モズが庭木の枝に止まってじっとしているが、その尾羽根が上下に揺れている。モズは庭の木立で巣作りをする。アカハラも冬の休暇から帰ってきた。シジュウカラが、巣箱に猫の抜け毛を運んでいる。ジョウビタキが、小さい体で見事なソプラノを披露している。リッチなメゾソプラノで歌っているのはゴジュウカラだ。標高1,400メートル、日本一標高の高い山里の冬は寒く長い 標高1,400メートル以上、日本一標高の高い山里の冬は寒く長い。この十二月は、すでに氷点下17度を記録した。December. 深くて暗い12月。December はラテン語で10番目という意味。古代ローマでは3月を一年で最初の月、新春とした。で、12月がDecember になった。そうであれば、冬はあと二ヶ月。ローマは北緯41度に位置する都市。日本では、青森県津軽半島の真ん中あたり。 薪を一番消費するのは12月 一年で一番薪を消費する月は12月なんです。村のみんなも同じ意見だ。雪深くなるのは1月2月だし、この山里の最低気温である氷点下20度以下を記録するのもこれからだ。しかし、年が明ければ薪の消費量は日毎に少なくなっていくだろう。思うに、その理由はこうだ。12月にはまだ、冬への支度と心構えができていないことがあげられる。それから12月は、夕暮れが早く、日差しも低いことだ。我々は、日没が一番早い日は冬至だと思っている。しかし、実際は冬至よりも、その直前の日々の方が日没は早い。12月は、深くて暗い月だ。誰もここに来るな、6月の庭にいればそう思う わたしは、孤独ほど仲のよい友達に会ったことがない。「誰にも会いに行かない。だから、誰もここに来るな!」。6月の庭にいれば、そう思う。「タブチには思い遣りがない」。人はそう思っているんだろう。自分にしてみれば、“絆と思い遣り”という言葉がどうしても好きになれない。「絆とか思い遣りという言葉は、安易に口にすべきものではない」と思うからだ。そういう言葉をなにかと口にする奴は、テレビのニュースキャスターみたいに空ゾラしい。それは、心の奥深くにいつも厳然としてある思いなのであって、口にすべき言葉ではないんだ。甲斐鉄太郎のヘンリ・ソローと田淵義雄さんへの理解甲斐鉄太郎は八ヶ岳に憧れる 八ヶ岳に憧れている。八ヶ岳とその山麓の空気は私には特別な刺激であった。八ヶ岳登山は美濃戸口経由で阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳とぐるりと回ることで始まった。美濃戸口からの八ヶ岳登山はそれだけでも八ヶ岳山麓の雰囲気を醸すものであった。その後に野辺山など小海線沿線の登山口から北八ヶ岳に足を運ぶようになって八ヶ岳とその山麓がおりなす風景に魅了されるようになった。清里の清泉寮の頭上を覆う赤岳はよい。 野辺山からあがった八ヶ岳ヒュッテはお屋敷を移した建物であり贅沢なつくりであった。ここを舞台にできの悪いドラマの主人公を田宮次郎が演じていた。冬に撮影されたドラマであったことや社会派風の人間ドラマであるために八ヶ岳山麓の魅力はなかった。 八ヶ岳ヒュッテのある野辺山の西には八ヶ岳が翼を大きく広げている。野辺山や川上村からの八ヶ岳の眺望は爽やかさと雄大さこの上ない。仕事での会合の帰り道、知り合いをこうした風景を案内し雰囲気のよいレストランで食事をしたことがあった。この人は数年も経ないうちに八ヶ岳山麓に邸宅を建てて移り住んだ。定年を節目に完全に八ヶ岳の住民になった。オーディオが趣味で奥さんは歌をYouTubeにアップすると人気になる人であった。東京六大学のある一つの大学で電気工学を学んだ人であった。オーディオには特別な思いがある。音響のための設備をした部屋でクラシック音楽を流してくつろぐのである。ある知人が招かれたときの様子を私に語っていた。 山麓生活ということでの別荘暮らしとなると八ヶ岳山麓が選ばれる。その別荘は小淵沢から西側の方面の南麓がよい。知人も個々に住居を移してオーディオの趣味を満喫している。 私の夏休みは八ヶ岳で過ごすことであった。八ヶ岳登山をし山麓の宿から周辺の川に釣りに行くことなどである。正月には清里の清泉寮に泊まることが多かった。年が明けるその時間に外国人たちが爆竹を鳴らしてはしゃぐのを珍しくみていた。清泉寮の洋館を張り込んだことなどは思い出である。ポール・ラッシュはこの地に寒冷地農業を普及させたことになっていて、清泉寮もこの人の尽力で建設された。清泉寮の洋館は石を積み上げてつくられていて他にはない趣がある。アーリー・アメリカとアメリカキリスト教はとはこういうものなのだと洋館に泊まって思ったものだ。清泉寮の石積みの洋館 清泉寮の洋館のような部屋が一つあれば八ヶ岳での暮らしはそれですむという思いがある。机を一つ、小さな調理場がついていればそれでいい。冬場の暖房が一度切れると暖めるまで二日三日かかる。建物ぜんぶが冷え切るからだ。薪(まき)ストーブにはあえてこだわらない。タンクを外に設置する石油ストーブを使う。このようなことを考えている。 川上村を八ヶ岳山麓と決めてしまうのには抵抗がある。川上村からの登山に金峰山がある。小川山は岩場の登山で人気である。金峰山登山のために廻り目平キャンプ場と併設の宿をたびたび利用した。5月の連休の金峰山では足下の雪に悩まされたことがあった。登山の後先には千曲川の支流をなす幾つかの川でイワナを釣った。雪解けの水が冷たい川だ。廻り目平にいるとここは八ヶ岳山麓だと思わない。野辺山の方面に移動すると八ヶ岳の裾野がここまで流れてきていてレタス畑が開墾されているのだと思う。韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡だ 八ヶ岳は火山性の山地である。何度も噴火して山がもりあがりそして山が崩れた。韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡である。須玉から韮崎にかけて走る尾根を断層だと思っていた。八ヶ岳の崩壊による岩屑(がんせつ)雪崩の堆積などを計算すると富士山より高い山だった。八ヶ岳山麓の広がりはそのようなことだと納得させる。八ヶ岳崩壊は近代における磐梯山崩壊が教える。火山の噴石でできた山は脆い。地下水がマグマの影響で沸騰すると水蒸気爆発を起こす。北八ヶ岳方面の山塊が崩壊し川を堰き止めて千曲川のみならず流れ下って信濃川の洪水を引き起こしている。台風の大水によっても似たことがおこる。川上村川端下の地に住む田渕義雄さん 韮崎から増富方面に向かい塩川ダムを経て信州峠を越えて川上村にでる道順で車を走らせる。車に自転車を積んでいて峠からの下りを駆け下りるのは贅沢な遊びであった。廻り目平まで行ってそこから林道に入って国師岳に抜ける道は冒険心を満足させる。 廻り目平から国師岳方面に向かう道の途中に住んでいるのが田渕義雄さんであった。川上村川端下(かわはけ)の地である。イワナがいる川が流れ小川山の岩場がそばにある。昔はなかったレタス畑がこの地にまで上がっている。 都会のマンション暮らしをしていると野にでたくなる。そして川上村を流れる小さな渓流や千曲川本流の流れでの釣りをすることは夢見心地に心境だ。矢も楯もたまらず川上村の川に行きたい。そのような気持ちが充満するマンション暮らしである。都内の釣具屋で釣り具をみては千曲川を思う。書店に行っては釣りや野外遊びの本を手にする。そのようにし巡りあったのが田渕義雄さんの著書であった。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」(田渕義雄)。フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦略と詐術のためにフライフィッシング教書(シェリダン・アンダーソン、田渕義雄訳)。この二冊の本と田渕義雄さんと川上村一まとめになって私の川上村と田渕義雄さんが形成された。田渕義雄(たぶち・よしお)さん 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学哲学科を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。ソローと『森の生活』 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。ナチュラリスト ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。超絶主義者(トランセンデンタリズム) 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。嫌いならば都会と組織から抜け出せばいい 都市での暮らしに馴染めない。あるいは組織機構に組み込まれた業務が苦手な人がいる。いつしか都市生活にも組織での仕事に嫌気がさして逃げ出す人がいる。逃げ出すというよりもそれができない、それをしたくない、身体と精神が拒絶反応をするという人がいる。ある割合でこのような人が世の中に組み込まれているのだ。東大入学が絶対課題になっていた人は人生は釣りをしていればいいのだ、と決めてそれから抜け出した。都会が嫌で、組織での仕事が嫌な人は抜け出せばいい。嫌なものはしない。嫌なことをしているのなら止めればいい。あとは何とかなる。自然の中がいいならばそうしたらいい。日本が農業国であった戦前は都会が嫌な人を田舎が受け入れた。ヘンリー・D・ソロー ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。田渕義雄さんの勘定書にウィンザーチェアーが加わる 田渕義雄さんの寒い山の木工室のロッキングチェアの家具が人気だ。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。畑を耕して薪をつくって、調理をし、あれこれするうちの一つにロッキングチェア製作がある。ソローの森の生活の家計簿には自作した作物と買うものとの勘定書がある。田渕義雄さんの勘定書の項目には執筆料、印税収入に加えてウィンザーチェアーの販売が計上されるようになった。 自然と向き合って自然に働きかけて何物かを得ることが人の働きである。寒村の暮らしは畑仕事が主なものになる。よほどの働きをしなければ得られるものは少ない。働くと自分の時間は極小になる。働き者でなければ森の生活はできない。都会と組織が嫌で森の生活に逃げ出しても怠け者は生きていけない。森では怠けられない。長野県南佐久郡川上村 長野県南佐久郡川上村は私にとっては遠い地である。同時に八ヶ岳が広がってみえる特別のところである。東京の夏にうだされて夜のうちに北八ヶ岳登山口の松原湖駅に行って夜明かしした小海線の沿線でもある。自転車に乗って旅行していたころには韮崎から峠を越えて行くところであった。釣りが好きになってからはイワナを釣る渓流がある場所に変わった。いまでは八ヶ岳をレタス畑越しにみるところになった。川上村の暮らしと経済 川上村(かわかみむら)は長野県南佐久郡にある千曲川の最上流部に位置する村だ。何時しか夏のレタス産地になった。平成27年度国勢調査では川上村の就業者の76.3%が第一次産業に従事していた。村は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。川上村に奥秩父の印象が付いて回るのはこのためだ。川上村の東部と南部は奥秩父山塊の主脈に属する。西部は八ヶ岳の広大な裾野(野辺山高原)である。村域全体が1,000mを超える。川上村役場は標高1,185mにあり市町村としては最も標高の高い場所にある。寒冷地農業が研究され川上村と周辺村域は高冷地農業が営まれるようになって野菜の端境期を上手く埋めている。レタス生産が主力で一戸あたりの年商は2,500万円ほどである。平成27年度の川上村の世帯数1,205戸であり、人口総数は4,607人、うち男2,731人、女1,876人である。昭和40年度の世帯数1,170戸、人口総数5,176人とあまり変わりがない。稼げる働き口があれば人口は減らないことを示している。川上村の気候とレタス栽培 川上村の8月の日平均気温は19.5℃であり札幌市の20.5℃よりも低い。降水は夏季の前後、梅雨と秋雨の時期にまとまっている。日照時間も長い。7月の平均気温は21.7℃、最高気温は27.6℃。8月平均気温は19.7℃、最高気温は24.2℃。高冷地の野菜栽培は夏季集中型である。夜明けから日暮れまで、そして夜間作業で収穫し出荷する。近年は外国人研修制度によって中国人が農作業に従事していたがコロナ禍で足止めをくった。農作業には多用途のトラクターが使われているが今後はさらなる農業の機械化を推進することになる。縄文期に人が暮らしていた川上村 この川上村の歴史を概観する。八ヶ岳山麓や中央高地は縄文時代の遺跡が数多く分布する地域だ。川上村にも後期旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が分布する。馬場平遺跡や大深山遺跡がある。大深山遺跡は日本で一番標高の高い場所に立地する集落遺跡だ。弥生時代の遺跡は少ない。古墳時代から奈良時代のものとされる遺跡はない。平安時代の遺跡はある。戦国時代に信濃は甲斐国の武田氏の領国となり、武田領国においては甲斐本国の黒川金山(山梨県甲州市)をはじめ金鉱山が開発された。川上村でも梓久保金山遺跡では金鉱山の採掘・精錬用具や金粒付着土器が出土している。金の採掘や精錬作業が行われていた痕跡だ。近世に信濃国では小藩が分立するが、川上村は幕府直轄領として八か村があった。1889年(明治22年)の町村制の施行により居倉村、原村、御所平村、大深山村、秋山村、梓山村、川端下村、大明村の一部である樋沢の区域をもって川上村が発足し現在に至る。川上村の象徴となったレタスと川上犬 川上村は交通不便なところであったために在来の日本の犬が原始に近いまま残されていた。この地域からでた十国犬は有名である。長野県によって天然記念物に指定されている川上犬は十国犬の風貌を残している。川上犬はレタスと重ね合わせて川上村マスコットキャラクター「レタ助」になっている。川上村川端下には田渕義雄さんが住んでいた。出版社に勤務していた編集者でナチュラリストである。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」という本を出していて私には羨望の人であった。田渕義雄さんはいつしかそこそこの規模でレタス畑を運営し、ウインザーチェア方式のロッキングチェアなどをつくる工房の主にもなっていた。ウインザーチェアのロッキングチェア 私は快適にパソコン業務をするために椅子にこだわる。こだわるというよりも椅子と机とモニターの快適な位置を探して奮戦している。机を物色する日々がつづき、ウインザーチェアのロッキングチェアを手に入れては喜び、これですべてが足りることがないので、別の椅子も用意する。ぐるぐる回りの関係が果てしなく続く。田渕義雄さんがウインザーチェア製作に取り組む心情がわかる。どんなものでも自作しようとするナチュラリストの行動は椅子つくりをすると達人の域に至った。思考に引っかかって離れない物事の解決を夢見る 私の望みは何か。子供のころから特に学生時代に考えていて解決や結論がでていない事柄を引き続いて思索していくことである。お金に汲々とし、時間を作り出すこと苦労している身ではなかなか叶わない願いだ。「森の生活-ウォールデン-」のソローは二年二カ月の帳簿を残した。農業の収支計算簿である。身を粉にして働いても残るものは少ない。田渕義雄さんの田舎暮らし「寒山の森から」は都会の人々に刺激を与えた。そのことだけで田渕義雄さんは英雄になったのだが引き続いて自然の暮らしの図書をだし、アウトドア雑誌の常連執筆者として活躍する。人生最大の暇つぶしと言いながら自分が使うものは自分でつくっていた田渕義雄さんは、頼まれてロッキングチェアなどのウインザーチェアーをつくるようになった。労働を金銭に換算してはかる考えがあってはできないことだ。田舎暮らしに憧れていながら「ぐうたら」を決め込むのが普通の人だ 田渕義雄さんの寒山の森の暮らしを知ると私などは暇をつくっては本を読み、時々ものを考えて、備忘録の短い文章をしたためて、喜んでいればいいのだ。大それたことを考えてはならないと自分を戒める。働き終えて八ヶ岳山麓で暮らす知人は甲斐駒ヶ岳がみえる日差し豊かな部屋に好みのオーディオを据えてモーツァルトを聴いているのだろうな。真空管アンプのチリチリした音がよいとか、スピーカーはこれでなければいけないとか、アンプはやはりトランスが重く大きなものに限るとか、ぐるぐる回りの思考をしていることが想像できる。これなどは田渕義雄さんの反対側にいるぐーたらな仕合わせ者である。人はみな後者でありたがる。2020-07-05-life-of-thoreau-forest-and-yoshio-tabuchi-of-kanzan-forest-