1940年代に生まれた人々の行動とある事例
1940年代に生まれた人々の行動とある事例1940年代に生まれた人々の行動とある事例今は様子が変わってしまった清泉寮旧館の木造建築。1940年代に生まれた人々の行動とある事例(本文)ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」は都会暮らしの現実を癒やす清涼な世界 「寒山の森から」の著者、田渕義雄さんは千曲川源流と小川山というロッククライミングの岩場の山に近い川上村川端下に初期アメリカ風の家で暮らす。幾つかの著書をもつ田渕義雄さんは、アウトドア雑誌への常連寄稿家であり、執筆活動と森での生活を慎ましやかに営む。田渕義雄さんは、フライフィッシングの訳本をだしているようにライフィッシングの名手であり、ロッククライミングに興じて生きてきた。歳を重ねるとロッククライミングのために体力が衰えるから遊びは別の方面に移る。田渕義雄さんは、ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を地で行く人である。思想と行動が「ウォールデン-森の生活-」に近い日本人である。都会の暮らしが息苦しく感じる人にはヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」は清涼な世界である。八ヶ岳の南東の眼下に広がるビニールの白い畝(うね)は謎の光景であった 長野県南佐久郡川上村のことは知り合いが1970年代に牧畜農家の暮らしぶりを撮影した。内にこもるこの人は都会での勤務に物憂さがあった。川上村の農家の風景の写真は都会の人が身勝手に描く思い込みを移し込んでいた。働いた時間だけお金になるという暮らしとは違いこの時代の川上村の牧畜は輸入牛肉におされる状況にあった。都会の人の空想は何時しか海外で支援活動をする東京大学を卒業した北陸の都市で育った人との縁を結んだ。時が進んで川上村は夏場にレタスやキャベツを生産する高冷地農業を興してブランド野菜の生産地になった。労働集約農業はさ中国や東南アジアからの季節労働者に依存して成立する。八ヶ岳の赤岳稜線の眼下には白いビニールの畝(うね)が広がる。6月の野辺山と川上村周辺は夏野菜の植え付け時期である。盛り上げた畝にかけたビニールに穴を開けてレタスの苗を植える。この事情を知らないと八ヶ岳の南東の眼下に広がるビニールの白い畝(うね)は謎である。田渕義雄さんはアウトドア雑誌などの定期執筆という多くの人が憧れる文筆家になっていた 1982年は田渕義雄さんが川上村川端下の板張りの家に住み始めた年である。この家に行くのにどの道を通ったののか覚えていないのだ。38歳であった。田渕義雄さんの連れ合いは単行本の編集者だり川上村の家で仕事ができる。田渕義雄さんはアウトドア雑誌など定期執筆していた。田渕義雄さんはフライフィッシングとロッククライミングとその道具と川上村川端下のことを拾い上げて記事にした。田渕義雄さんの文章は都会暮らしの人の癒(いや)しとなった。蓼科山麓と魚沼川の別荘には薪(まき)ストーブが据えられていた。薪ストーブがある週末田舎暮らしなのだ ある人が八ヶ岳の背後に位置する長野県の旧長門村に週末の住まいを建てた。南に蓼科山がみえる。東京の暮らしの不満は登山に向かうことになり、登山が一段落すると週末田舎暮らしに変わった。田渕義雄さんに刺激されなくても1980年代は田舎暮らしに心が動く時代であった。旧長門村に週末に住む人と同じ職場の人は新潟県湯沢町に別荘をつくった。湯沢町を流れる魚沼川に誘われてイワナ釣り、ヤマメ釣り、アユ釣りに興じた。蓼科山山麓と湯沢町の魚沼川近くに別荘を建てた人はともに連れ合いが地方公務員であった。商社に勤めるある人は南に甲斐駒ケ岳を仰ぎ見る北杜市に定年を機会に家を建てて東京から移り住んだ。オーディオが趣味で凝った装置を来訪者に披歴するのは満足することの一つである。この人の連れ合いは地方公務員であり歌が得意である。歌手とみまがうほどに歌が上手である。YouTubeに投稿された歌の動画は著作権フィリーなので閲覧数が蓄積する。蓼科山麓と魚沼川の別荘と北杜市の家には薪(まき)ストーブが据えられている。蓼科山麓と魚沼川の別荘の住人は薪(まき)を地元の人から買っていた 薪の費用は大きい 苦労を口にする 地方公務員を連れ合いにする別荘暮らしの三人は別荘で会社業務をしない。別荘暮らしを通じて収入を得る必要がないのだが特別な才覚を田渕義雄さんのようにもたない。蓼科山麓と魚沼川の別荘の住人と北杜市の住人は薪(まき)を地元の人から買う。薪の費用は大きい。早稲田大学文学部哲学科にいて生物の研究会に属しチョウを対象に山に分け入った人のその後 つれあいはブックメーカーすなわち単行本編集者だという田淵義男さんはの経歴である。都内下町のガソリン販売店の三男であり、小学校では「学業は優良といえるが、協調性に欠ける嫌いがある」と担任教諭が通知表に書き込んでいた。田淵義男さんは早稲田大学文学部哲学科を卒業する。大学では生物の研究会で昆虫、とりわけチョウを対象に山に分け入る。ある男が北アルプスを廃道状態の伊藤新道の危険な道を下って晴嵐壮にたどり着いた。晴嵐壮に宿泊する青年は昆虫をひょいと捕まえて男に説明した。生物の教員になっているのだろうと想像される青年の純真無垢さが男には清々しかった。北アルプス登山の7月のこであった。田渕義雄さんと生物好きの青年のことがこの男には重なる。れれているヘンリー・D・ソローと「ウォールデン-森の生活-」を教本にしていた田渕義雄さん ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を田淵義雄さんが強く意識していることが想定される。書き物によって田渕義雄さんはヘンリー・D・ソローと「ウォールデン-森の生活-」を教本にしていたことを文章にしている。虫取りは田淵義雄さんを山に運ばせ、バックパッカーの行動様式を身にまとううようになった。北米を旅してマス釣りをするうちにフライフィッシングの世界が田渕義雄さんに広がった。学生時代の後半は学園紛争に明け暮れる日々としてあった、擦り切れた全学連旗を掲げてデモの先頭に立ったこともあった 「わたしの学生時代の後半は、学園紛争に明け暮れる日々としてあった。擦り切れた全学連旗を掲げて街頭デモの先頭に立ったこともあった。青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学んだし、機動隊の棍棒は痛いものだと知った。我々は、野良猫のように蹴散らかされた。そして、高度経済成長の渦に投げ込まれた。あの時代のあの学生運動への情熱がなんであったのかは、自分には永遠の謎としてある。だが協調性に欠ける学徒達の腹いせだったかも知れない、という羞恥は残るにしても、後悔はない。何故なら、そこには時代や社会に対する純真さがあったからである。」旧制高校はリベラルアーツということで人類が残したあらゆる学問と芸術を学ぶ場として位置づけられていた 1960年末の日米安保条約改定と学費問題で大学が騒然としていた時代に田淵義男さんは早稲田大学の学生であった。日米安保条約は自動改定されるようになり日本の社会は経済発展の爛熟を迎えた。日本の政府に歯向かう大学、大学教職員、邪魔者であるから政府は懲らしめにかかった。大学の自治を破壊することは問の自由を奪うことでもあった。旧制高校はリベラルアーツということで人類が残したあらゆる学問と芸術を学ぶ場として位置づけられていた。大学や旧制高等学校の自治と思想の自由は一体のものであった。日本の大学は世界で一番魅力のない大学になってしまったと宇沢弘文氏は述べる 連合国軍最高司令官総司令部GHQ(ジーエイチキュー)に駆り出されて戦後の日本の統制と経済の行方を決める一連の動向を通訳として見聞してきたのが経済学者の宇沢弘文氏である。「自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)」の著者、宇沢弘文氏は、70年安保を政府の意を受けて賀屋興宣氏が右翼などを動員して大学と学生教職員を徹底して弾圧したことを明かす。このことをつうじて日本の大学は世界で一番魅力のない大学になってしまったと述べる。岸信介氏と賀屋興宣氏のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配を宇沢弘文氏は暴く 賀屋興宣氏は岸信介氏とともにA級戦犯であったが東条英機の絞首刑の翌日にGHQの手によって釈放される。賀屋興宣氏は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で大蔵大臣として戦時経済を担当したが、東郷茂徳外務大臣と共に米英に対する開戦には反対だった。岸信介氏は東條内閣で商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。岸信介氏と賀屋興宣氏のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配との関係を宇沢弘文氏は暴く。GHQによる戦後日本の体制構想の核心にA級戦犯である岸信介氏と賀屋興宣氏を釈放して据えたのである。「青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学」び、「機動隊」によって「野良猫のように蹴散らかされた」田渕義雄さんであった 「青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学」び、「機動隊」によって「野良猫のように蹴散らかされた」田渕義雄さんであった。この経験と虫取りと、薪ストーブへの憧れが田渕義雄さんの「寒山の森」生活の下地となっている。宇沢弘文氏の社会的共通資本の考え方の着想 旧制第一高等学校から東京大学数学科に進んだのが宇沢弘文氏である。15名の定員に300名をはるかに超える受験者数があり23倍の難関を突破したのであった。医学部に進む教科にいたのだが午前中は寝ていないとラグビーの練習ができないために授業にでることができなかった。取得単位と出席日数の不足により大学進学に残されている道は数学科だけであった。宇沢弘文氏は大学卒業後に経済学の道を選択する。数理経済学に進み、新古典派の成長理論を数学的に定式化し、二部門成長モデルや最適値問題の宇沢コンディションの業績がある。新古典派経済成長モデルではその成長経路が安定的とされたが、宇沢氏は安定的なものではなくむしろ不安定なものである、また経済はケインズ的な失業を伴うという、不均衡動学によってアメリカ・ケインジアンたちに挑んだ。リベラル・アーツとしての旧制第一高等学校で学びは宇沢弘文氏の経済学に大きく作用した。宇沢弘文氏の経済学は数学と旧制第一高等学校時代のリベラル・アーツによって着想されている。宇沢弘文氏は水俣病の実態調査にかかわるなかで環境汚染から人の生活を守る手法として社会的共通資本の考え方を打ち出す。社会的共通資本の考え方は企業の横暴に抑制をかける論拠になる。旧制第一高等学校で医学に進む教科にいたことは後に水俣病患者の救済事業に関わったことで強く意識されるようになった。メチル水銀化合物が魚介類など食物連鎖によって人の体に高濃度蓄積されたために神経障害ほかを発症させたのが水俣病である。社会的共通資本の理論によって森林、河川、海洋、大気をその枠組みに組み込む 社会的共通資本の理論によって森林、河川、海洋、大気をその枠組みに組み込み、関連して水道、教育、情報などの文化財産を市場原理に委ねて運営してはならないことになる。水道や消防を市場原理によって米国資本がはいっていると国の危機に際して役割を放棄することは明らかである。火事の発生率と消化能力としての消防を原価主義によって計算するのが新自由主義の経済学である。宇沢弘文氏はシカゴ大学で教授であったが、シカゴ大学の同僚教授のミルトン・フリードマン氏の市場競争を優先させることで経済は効率的に成長するという考えに対し、宇沢氏は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすることを主張する。ミルトン・フリードマン氏の経済学の着想の逸話が宇沢弘文氏によって語られている。教育の経済学の発想は大学に行くときの費用と労力と行かなかったこととの生涯賃金の差はどうであるか、ということである。犯罪の経済学は人を殺すときの快感と捉えられて監獄に押し込められ時に死刑になることの苦痛の比較として成立させた。自殺の経済学は現在の苦痛と死ぬときの苦痛の差によって計算される。ベトナム戦争に関しては最小の兵器と兵力でいかに敵を殺すかという市場原理による計算をしていた。新自由主義のフリードマン氏と社会的共通資本を着想した宇沢弘文氏の経済学の違いは明白である。ベトナムへ派遣米軍は1965年末に第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の計184,300名になる 1956年に宇沢弘文氏はスタンフォード大学に招聘(しょうへい)される。1964年には シカゴ大学経済学部教授となる。米国はベトナムの内戦に本格的に介入するようになる。1965年3月8日に海兵隊3,500人が南ベトナムのダナンに上陸する。ケネディ政権時代は南ベトナム軍を強化するためにアメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させていた。その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、1964年末には23,300名にとなった。ジョンソン大統領は1965年7月28日に陸軍の派遣することを決めた。ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに第3海兵師団、第175空挺師団、第1騎兵師団、第1歩兵師団の合計184,300名になった。地上軍の投入により戦線が拡大する。米国では学生は徴兵の対象であり反戦運動をしたり成績が悪い学生を優先して徴兵する政策がとられていた 米国の徴兵制は1973年1月に廃止される。1975年3月には選抜徴兵登録も廃止される。1966年ころには徴兵制であった。徴兵の年齢と大学生と大学院生の年代が重なる。アジアの小国ベトナムに米国が軍事介入し空爆による大量殺戮(さつりく)と枯れ葉剤による自然破壊といった暴虐を、知識層は自分がなす行為として受け止めていた。学生は徴兵の対象であり、反戦運動をしている学生や成績が悪い学生を優先して徴兵する政策が実行されていた。シカゴ大学は大学院大学であった。シカゴ大学の経済学部教授として宇沢弘文氏は在職していた。学生の成績表を徴兵局に送らないことを求めて1966年にシカゴ大学の学生は本部塔を占拠する。宇沢弘文氏は他の三人の教授と大学と学生の調停役として活動する。調停によって大学は学生の成績を付けないことが決められる。シカゴ大学の学生は学者研究者になる人々であったのだ。調停役を勤めた教授たちは全国の反戦運動の動きを大学教授と学生に伝える雑誌を発行していた。宇沢弘文氏が前からの約束によって1966年8月にケンブリッジ大学に行って1年後に戻る他の三人の教授は大学を追われていた。テニュウアという終身的な地位の保証権を保有していたのは宇沢弘文氏だけだった。米国はその後に選抜徴兵登録制度が復活して現在に至っている。博士論文作成途中の三人の学生のベトナム反戦運動の結末 宇沢弘文氏が担当していた博士論文を執筆していた優秀な学生のうち二人が山の中に籠もるようになった。一人は州立大学の教員になっていた。一人は一家がある州の有数の山林地主であり宇沢氏が東大に戻っていたころに一度姿をみれた。幽霊と向き合っているような不気味さがあった振り返る。この人はその後に自殺した。ある学生は徴兵局を襲撃して自ら出頭する。10年の懲役刑を受けて刑務所を転々としたのち故郷に戻ったという消息が残っている。これらの人々が大学に残って研究していたら米国の経済学はまったく違った姿になっていたに違いないと宇沢弘文氏は述べる。ベトナム戦争期間をつうじて米国では10万人近い学生が徴兵を逃れて海外にでていった。ほとんどは米国に帰らなかった。帰った人は逮捕され重い刑に処せられた。宇沢弘文氏が日本に戻ろうとした動機はベトナム戦争であった。アジアの小国ベトナムを焼く尽くす軍事行動をする米国にいることが恥ずかしくなったのある。東京大学の運営は管理主義的運営であり教授たちは権力闘争に明け暮れる 宇沢弘文氏は1968年に東京大学に戻って経済学部助教授に就任する。シカゴ大学はこの処置に対抗して宇沢弘文氏の教授職の名目を特例で残していた。宇沢弘文氏は1969年同教授、1980年同経済学部長の経歴。1968年4月に東京大学に戻ると安田講堂を学生が占拠するという事件が発生して東京大学は研究らしい研究はほとんどできなかった。宇沢弘文氏は学生の思いに同情する。大学と学長の管理主義的な対応に反発する。養老孟司氏が折に触れて述べることは東京大学の管理主義的運営であり、教授たちが権力闘争に明け暮れることである。教授会の選挙では匿名の怪文書が飛び交う。推薦された候補者に投票すると票を入れたのは養老孟司氏だけであった。このような東京大学を定年前に退職したときにどんよりとしてしか見えていなかった空が青く見えた。宇沢弘文氏は丸山真男教授らた東京大学改革の委員として活動する。東京大学を法律、経済学、物理学、理学、医学などの高度な学問を追究する大学院大学の構想をつくるのだが実現しないままに現在に至っている。米国のベトナム戦争従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人 ベトナム戦争に徴兵されて駆り出された人々の戦争体験を描いたプラトンなどの映画がある。滑稽な描き方をしたのがトム・ハンクス主演による映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」である。敵兵を攻撃することと相まって米兵の戦闘の悲惨な状況が描かれている。従軍兵員数は8,744,000人、戦死47,434人、その他の死者1,0786人。対象期間は1964年8月4日から1973年1月27日まで(出典はThe World Almanac and Book of Facts 2014)。ベトナムにおける暴虐を自分の行為と思い込む学生がいたことを宇沢弘文氏が伝える。学生生活から徴兵されたベトナムの戦地に行き、銃を持って人を撃つのであるから苦悩は大きい。日本における学生の状態と米国のそれは違う。日本でもベトナム反戦運動があった。日本の学生の学園紛争にはベトナム反戦が添えられていた。事実として日本はベトナムへ戦争の前線基地になっていた。相模原補給廠(相模総合補給廠)か兵器がベトナムに送られた。この近くには三菱の軍関連の施設がいまもある。東京大学医学部の助手であった養老孟司氏は2年間大学に行けない状況にあった 米国でベトナム戦争に反対する行動にでた大学教員と学生には懲罰的な仕打ちがとられていた。シカゴ大学で博士論文課程にいた三名の経済学徒には悲惨な結末が待っていた。日本の東大闘争の先頭に立った今井澄(いまい きよし)氏は、機動隊による安田講堂封鎖解除後に逮捕され東京拘置所に勾留された。その後復学をして1970年に卒業、医師国家試験に合格する。当初は都内の医療機関に勤務し、1974年に茅野市の公立諏訪中央病院に勤務する。 1977年には安田講堂事件の判決が確定し服役する。1978年3月に刑期を終え、1980年に40歳で諏訪中央病院の院長に就任する。1988年に鎌田實が代わって院長になる。今井澄氏は1992年、日本社会党から参議院議員選挙に長野選挙区に立候補し当選する。後に民主党に移り1998年の参議院選挙では比例代表区から当選。参議院では決算委員長ならびに厚生委員長を歴任した。東京大学医学部の助手であった養老孟司氏は2年間大学に行けない状況にあった。学生の行動と戦時中の軍の指導者の行動は同じ根のもとから起こったのと養老孟司氏は言いのける。日本では学園紛争の渦から社会に飛び出すと企業戦士として生きる者が多かった 医学部の学生には救いの道があった。田渕義雄さんと同じ道にいた人は会社員となって大企業の役員になった。髪をのばして僕は無精髭で学生集会に時々出かけた男は就職が決って髪を切ってきた時にもう若くないさという。荒井由実の作詞・作曲の歌である。学生のころの社会への不満の行動は押し殺して企業戦士として働き、身なり行動と思想は変容していた。この人の人生の価値はもたらされる収入と社会一般の評価のそれと同じになっていた。ある男がいた大学の同僚40人の行く末は、教員が10名、地方議会議員が3名、国会議員秘書が1名、労組書記が3名、税理士2名である。残りの人々は地方公務員7名、国家公務員3名、農協職員と地方銀行職員が5名。残りの5名は出版社ほかに勤務する会社員である。米国の大学院大学であるシカゴ大学でベトナム反戦の運動をした学生と教員に比べて日本の学生は学園紛争に巻き込まれながらもその後は穏やかな人生を営んでいる。【参考】田渕義雄(たぶち・よしお)さん 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学哲学科を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。ソローと『森の生活』 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称だ。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。ナチュラリスト ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。超絶主義者(トランセンデンタリズム) 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。ヘンリー・D・ソロー ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとして金銭的な豊かさは求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌に人々は共感した。 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。田渕義雄さん関連のこと早稲田大学文学部哲学科 早稲田大学文学部哲学科を卒業したあとに故あって大工になり薪ストーブ設計で右にでるものがいないと自負する人がいる。田淵義雄さんと同年代だ。その人も著述を業にしていたことがある。自らは最後のトップ屋だと称した。知能豊かで博識な人だった。早稲田大学では学生運動をしていて二度早稲田大学に入学した。ヘンリー・ソローを意識していた田淵義雄さん 田淵義雄さんは30年を超える寒山暮らしによって自らがナチュラリストであることを確かめる。田淵義雄さんの自問自答の言葉がつづく。決定的な言葉がある「エコロジーは自然を顧みない体制に対する反体制的哲学としてある」と。田淵義雄さんの寒山の暮らしがヘンリー・ソローの森の生活を意識していた。田淵義雄さんの言葉を拾い上げていく。ソロー「自分の貧困を耕せ、物事は変わらない、変わるべきは我々だ」 田淵義雄さんは述べる。わたしの座右の書である「ウォールデン、森の生活」の結びで、ヘンリー・デビッド・ソローはこう書いている。「菜園を耕す如く、自分の貧困を耕せ。新しい物を疑え。新しい友達や流行の衣服を欲しがるな。古いモノに向かえ、そこに戻れ。物事は変わらない。変わるべきは我々だ」ガソリン屋の三男は石油とガソリンの臭いが嫌いだった 冬越しの薪の備えは完璧だ、というよりは、それが完璧でなかった年の瀬なんか、この三十数年間一度もなかった。わたしは、東京の下町のガソリン屋の三男として育った。この子供は、石油とガソリンの臭いが嫌いだった。だからこの子は大人になって、薪ストーブを焚くためにこの寒い山に来た。恒例の寒山薪作り祭は11月の第三週末に行われた。総勢10人余りの年中行事だが、もう十年以上つづいている。夢は薪ストーブを焚いてら山で暮らすことだった 今にして思えば、タブチ君は個性的な子供だった。この子供は自分の趣味にしか興味がなかった。盆栽と魚釣りと、それから昆虫採集。季節を巡ってこれらの趣味を渡り歩いた。彼の友達は自然趣味だった。自然趣味には、自然を巡る教養が必要だ。この子供は盆栽と魚釣りと昆虫採集の本と雑誌をたくさん読んだ。「学業はおおむね優良といえるが、協調性に欠けるきらいがある」。彼の通信簿の通信欄にはいつもそう書いてあった。盆栽好きな老人以外には、彼に友達はいなかった。友達が欲しいとも思わなかった。この子供は、人間よりも自然に興味があった。だから、彼は誰も苛めなかったし誰にも苛められなかった。この子供の夢は、いつか薪ストーブを焚きながら山で暮らすことだった。資本主義の最大の欠点は、人が造った物ばかりと人生を分かち合うようにプロパガンダしつづけることだ。それが、資本主義のテーゼ(綱領)だからである。資本主義にとって、自然趣味は危険な存在だ。東京都国立市で13年間借家住まいをしていた わたしが13年間借家住まいをしていた東京の郊外の国立市あたりは、多摩川の河口だった。縄文人は武蔵野台地の崖の上に住んでいた。干潮時に貝を採取して、美味しい暮らしをしていた。我が川上村には、日本一標高の高い縄文人の村があった。標高1,500メートル、“天狗山縄文遺跡”だ。この遺跡からは、素晴らしい世界遺産的縄文土器が数多く発掘されている。思うに、この村の住人は暑い夏が嫌いな天狗だった。33年前雑木林の片隅に引っ越した、真新しい板張りの家が眩しかった 今から33年前、信濃台風が山と森をピカピカに洗い流した秋に、我々はこの雑木林の片隅に引っ越してきた。電気も電話も水道もガスシステムも間に合わなかった。それを承知でここに来た。真新しい板張りの家が眩しかった。赤いトタン屋根にミズナラの青いドングリが降って、コロコロ音立てて転がっていった。我々は、スバル・レオーネの4輪駆動車にキャンプ道具だけを積み込んでここに来た。渋谷の東急ハンズで買った台湾製の薪ストーブだけが、この家には設備されていた。それで、充分だった。裏庭の谷を刻んでいる涸れ沢に綺麗な水が沸いていた。紅葉した落ち葉を除けて、その水を汲んで暮らした。夜はコールマンのガソリンランタンを灯した。台湾製のフランクリン・ストーブに火を起こして、鉄釜で御飯を炊いた。この山住を始めるまでの10年間、わたしはキャンプ生活に明け暮れていた。この引っ越しは、夏から秋へアメリカのノースウェストを3ヶ月間キャンプ旅行した直後のことだった。だから、電気も水道もない生活なんてごく当たり前のことだった。今にして思えば、電気と水道と電話が来るまでのこの数週間は、超ロマンチックだった。ガーデニングと木工と薪ストーブとフライフィッシングと趣味のある人生を生きた 野望や野心を抱く人がいることが理解できない。自分は我が儘な人間だが、自分に野心はない。あるのは、ちょっとした物欲だけだ。山を下りて街へ行くときには、鏡の前に立って身だしなみを整える。みっともない格好をして人前に立つのが嫌だからだ。自分が身に纏うアパレルを蔑ろにするのはよくない。流行的衣類を着棄てる者は愚かだ。着古して自分の体に馴染んだ衣服を身に纏う快適さを知ることがないからだ。そんなきみは、ショーウィンドウのマネキンにすぎない。自分がどこにもいない。自分は金持ちではないので、安物は買わない。安物よりも10倍高価であっても、心ある商品はそれ以上に安心でロングライフだからだ。ガーデニング趣味と木工と薪ストーブと、それからフライフィッシング趣味のある人生を生きてきてよかった。わたしはクライミングとフライフィッシングを満喫したくてここにきた レトロな雑貨が若者に人気なのは面白いことだ。なぜならそれは発展的な社会化状況として捉えることができるからである。人がレトロな物に興味を示し欲しがることを、後ろ向きなこととして捉える者もいよう。が、大量生産、大量物流、大量廃棄、レトロな物に人の心が動くのは、あからさまな使い捨て的文明にみんながうんざりしはじめたからだ。村のスーパーマーケットであるNANA’Sの駐車場に“Calafate”が出店した。クライマーとアウトドアーのためのショップだ。我が集落の村外れには、小川山の岩峰群がそびえ立つ。日本で一番人気のあるフリークライミングとボルダリングのメッカだ。わたしは、クライミングとフライフィッシングを満喫したくてここに来た。ナナーズでシース・ナイフを見つけ一目で気に入った。7千円だった。フィンランドの遊牧民であるラップランダーの工芸品をプロダクツした商品だ。気の利いた雑貨を輸入する業者にありがとう。この新しいナイフが来て失ったナイフの喪失感は日毎に癒えている。「森からの伝言」が韓国で翻訳出版された Good news!。拙書「森からの伝言」(ネコパブリシィング刊)が韓国で翻訳出版されます。「列島と半島と中国大陸は一衣帯水の地。我々は仲良しになりましょう」。願いがたちまち半島に届いたんです。明日が見えていた時代なんてなかった 明日が見えない時代だ。みんながそう言う。まだ若い人たちには、特にそうかも知れない、と思わないでもない。明日が見えていた時代なんてあったことがあるんだろうか?と思う。わたしは、文学部の哲学科の学生だった。就職の窓口だったらしい学生課がどこにあったのさえ今も知らない。娑婆と折り合いがつかないことを憂えるな。きみには今少しモラトリアム(待機期間)が必要なだけだ。三年寝太郎という昔話がある。三年間なんにもしないで寝てばかりいた太郎が、ある日がばっと起き上げって村のためによい仕事をしたという逸話だ。森の片隅に小さな家を建てよう、電気も水道もいらない きみが街に住んでて、自然が恋しいなら、週末遊牧民になることをすすめる。何処か森の片隅に小さな家を建てよう。電気も水道もいらない。そんな土地なら、何処にでもある。買ってしまってもいいし、借りてもいい。Less is more. 森の小さな家にはなにもいらない。オイルランプと小さな薪ストーブがあればね。そこで、なにをするのかって?馬鹿だなー、NHK みたいな質問すんなよ。なんにもしないんだよ。枯れ枝拾い集めて薪ストーブ焚いて、暖かいなー。夜になったらオイルランプの黄色い焔みつめて、ガールフレンドとうっとりしてればそれでいいんだ。薪ストーブと木工趣味がなかったら冬は山にはいなかったかも知れない もしも、自分に薪ストーブと木工趣味がなかったら自分は何をしてこの山の冬を暮らしたんだろうか。もしもそうなら、絵を描いていたかも知れない。冬はこの山にはいなかったかも知れない。IFのない社会には、昨日も明日もない。あるのは今日だけ。朝起きて思うこと、それは今日は川に行こうか森に行こうか?ということだけ。Be Here Now. 今、此処に、在れ。70年代のインテリヒッピーのスローガンがそうであったように、イゾラドは自由を尊ぶ人たちなのだ。我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円 1年分の薪用の丸太のコストは10万円。薪作り祭の経費も10万円。我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円。安い高いで薪ストーブを焚いているわけではない。しかし、断言することができる。薪エネルギーのコストは、電力や化石エネルギーのコストよりも断然リーズナブルだと。薪エネルギーは、手作りの高貴なエネルギーである。それと化石エネルギーのコストを比較すること自体が、もともとナンセンスなのだが、人はとかく安い高いで言ったほうが納得がいく。我思うに、本当のことを言えば、全てのエネルギーのコストは同価なのではなかろうか。エネルギーの利便性が、そのコストを決定する。電力は化石燃料よりも利便性に優れている。で、エネルギー換算するに電気代よりもガス代の方が安く、ガスよりも灯油代の方が安い。同じ理由で、灯油は薪よりも高価だ。思うに、この家と木工場の暖房を全て灯油で賄うとすれば、その年間コストは100万円に及ぶだろう。薪ストーブは1740年にベンジャミン・フランクリンが発明した 我が菜園の野菜はリアル・オーガニックだが、この家の薪ストーブはリアル・ツールそのものだ。薪ストーブはおしなべてリアル・ツールスだが、なかでもこのアンコールはリアル・ツールスのなかのリアル・ツールだ。薪ストーブは、鋳物または鋼板で造られた自立型の暖炉として捉えることができる。それは、1740年にベンジャミン・フランクリンによって発明された。ベンジャミンは、鋳物の箱に火を閉じ込めることで、暖炉を退行的に進化させることに成功した。暖炉といえば、リビングルームに築かれた装飾的な暖房器具のように思われがちだ。暖炉ではなく囲炉裏を愛用してきた我が国では、特にそうだ。しかし、暖炉は欧米の囲炉裏であり、囲炉裏はニッポンの暖炉だ。その違いは、煙道(チムニー、煙突)を持つか持たないかだけだ。茅葺き屋根の家に住んだ日本人の暖炉には煙道が必要なかった。茅葺き屋根は分厚い天然素材のゴアテックスだ。煙と湿気は屋外に排出するが、雨水は遮断する。【ある人の川上村、そして川上村のレタス栽培と経済】長野県南佐久郡川上村 長野県南佐久郡川上村は私にとっては遠い地である。同時に八ヶ岳が広がってみえる特別のところである。東京の夏にうだされて夜のうちに北八ヶ岳登山口の松原湖駅に行って夜明かしした小海線の沿線でもある。自転車に乗って旅行していたころには韮崎から峠を越えて行くところであった。釣りが好きになってからはイワナを釣る渓流がある場所に変わった。いまでは八ヶ岳をレタス畑越しにみるところになった。川上村の暮らしと経済 川上村(かわかみむら)は長野県南佐久郡にある千曲川の最上流部に位置する村だ。何時しか夏のレタス産地になった。平成27年度国勢調査では川上村の就業者の76.3%が第一次産業に従事していた。村は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。川上村に奥秩父の印象が付いて回るのはこのためだ。川上村の東部と南部は奥秩父山塊の主脈に属する。西部は八ヶ岳の広大な裾野(野辺山高原)である。村域全体が1,000mを超える。川上村役場は標高1,185mにあり市町村としては最も標高の高い場所にある。寒冷地農業が研究され川上村と周辺村域は高冷地農業が営まれるようになって野菜の端境期を上手く埋めている。レタス生産が主力で一戸あたりの年商は2,500万円ほどである。平成27年度の川上村の世帯数1,205戸であり、人口総数は4,607人、うち男2,731人、女1,876人である。昭和40年度の世帯数1,170戸、人口総数5,176人とあまり変わりがない。稼げる働き口があれば人口は減らないことを示している。川上村の気候とレタス栽培 川上村の8月の日平均気温は19.5℃であり札幌市の20.5℃よりも低い。降水は夏季の前後、梅雨と秋雨の時期にまとまっている。日照時間も長い。7月の平均気温は21.7℃、最高気温は27.6℃。8月平均気温は19.7℃、最高気温は24.2℃。高冷地の野菜栽培は夏季集中型である。夜明けから日暮れまで、そして夜間作業で収穫し出荷する。近年は外国人研修制度によって中国人が農作業に従事していたがコロナ禍で足止めをくった。農作業には多用途のトラクターが使われているが今後はさらなる農業の機械化を推進することになる。2020-11-20-behavior-and-examples-of-people-born-in-the-1940s-