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テーマ:城跡めぐり(1249)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
千葉モノレールの県庁前駅から見ると、丘陵部の上におかしな建物が建っています。
近くで見ると、破風と望楼を備えた4層5階建の「立派な」天守で、切込み接ぎの石垣に支えられています。 時代錯誤もはなはだしく、戦国時代の千葉氏の居城に天守や石垣はあり得ません。 さらにその横には城に向かって弓を引く騎馬武者像がありますが、敵でも逆臣でもなく、城主千葉常胤でした。 千葉常胤もよほどこの天守が気に入らないと見えます。 それでも模擬天守内部のパネルや解説は見ごたえがあり、千葉氏を中心に関東の戦国の歴史がよくわかるため、複雑な関東の戦国の歴史を理解するなら、ここはおススメだと思います。 (しかも入場料は60円です) その模擬天守のある本丸跡の周囲には、土塁がわずかに残っていました。 石垣は後年に造られたのだとしても、少なくとも土塁は約600年前から残るものです。 本丸の北側は堀切で区切られており、本丸に続く曲輪の跡には、神明社と亥鼻城址の碑がひっそりと建っていました。 堀切跡? 神明社の祠と曲輪 千葉氏なのに妙見社ではありません。 亥鼻城址碑 この辺りは「亥鼻台」と呼ばれ、千葉城(亥鼻城)は1126年に千葉介常重により築城されました。 騎馬武者像にある千葉介常胤(常重の子)は源頼朝の挙兵の呼びかけにいち早く参加、鎌倉幕府の有力御家人にまでなっていました。 以後上総・下総で勢力を振るった千葉氏でしたが、1455年に一族の内紛により千葉城も落城したため、本佐倉城に拠点を移しています。 その後の千葉氏は没落の一途をたどり、最後は小田原の北条氏に従っていたため、北条氏滅亡と共に千葉氏も滅亡してしまいした。 関連の記事 本佐倉城→こちら 赤塚城→こちら 石浜城→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/19 10:38:20 PM
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