|
テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
宮島航路の桟橋から厳島神社へ向う参道の脇に「要害山」と呼ばれる場所があるのですが、ここが宮尾城のあった場所です。
「要害山」とはいうものの、名前とは裏腹に標高は30m足らずの小高い丘陵で、石段を登るとすぐに頂上に着きました。 城というよりは砦といった印象ですが、「日本三大夜戦」や「日本三大奇襲」などと呼ばれる「厳島の戦い」の舞台でもあります。 丘陵の上には曲輪の跡と思われる削平地があり、神社の祠やベンチなどが置かれています。 地形からすると曲輪は連郭式に三つ並んでいたようですが、地形の改変が激しくて城郭の比定は困難でした。 南側の曲輪跡。 虎口跡 宮尾城は非常にシンプルな造りになっており、「要害山」の名前にあるような堅固な印象はありませんでした。 しかしながらそれも納得のいく話で、宮尾城は毛利元就が陶晴賢をおびき出すために造ったオトリの城であります。 「守るための城」というより、「攻めてもらうための城」といったところでしょうか。 もしも宮尾城が堅固な造りで、それを見た陶晴賢が引き揚げてしまったら、せっかく宮尾城に詰めた毛利元就方の将兵からもブーイングが起こったことでしょう。 宮尾城は1555年に毛利元就によって築城されましたが、当時の毛利元就は中国地方の弱小武将の一人に過ぎませんでした。 しかしながら「厳島の戦い」で陶晴賢に勝利したことから、西日本最大の戦国武将へとのし上がって行きました。 そしてこの宮尾城こそが、毛利元就の中国制覇の橋頭堡だと言えるでしょう。 厳島神社を訪れる際は、ほんの少しだけ足を伸ばして戦国絵巻を想像してみてはいかがでしょうか。 関連の記事 厳島古戦場→こちら 厳島神社→こちらおく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 04:33:06 AM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(岡山・広島編)] カテゴリの最新記事
|