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テーマ:DVD映画鑑賞(13603)
カテゴリ:映画
■ネイティブの津軽弁が時々外国語のように聞こえる。15秒間の何も映らない暗闇の後、寺山の分身を演じる佐々木英明のモノローグでこの映画は始まる。画面の中でハイライトに火をつけ、「劇場内は禁煙だろ、でもこっち側は自由なんだ。」って見る者に向けて挑発をし始める。
「映画館の暗闇の中で格好良く堕落しようなんて思っているんだったら、そんな行儀良く座っていたってダメだよ。ちょっと隣の席に手を伸ばして膝なんか撫でてみろよ。失敗したって誰もアンタの名前なんて知らないし、誰も俺の名前なんか知らない。」 ■10代の終わり頃に見て、かなりショックを受けた映画である。今回何年ぶりかで、見直して、この映画のどこにそんなに揺さぶられたのだろうか考えてみた。やはり一番衝撃的だったのは数々のイメージの強烈さだったのかもしれない。 緑色の画面、ウサギ殺し、夜の凧上げ、制服少女たちのストリップ、ドラッグまみれの若者たち、傷痍軍人の行進、歩行者天国での即興劇、繁華街の交差点における○○○型のサンドバック、総理のお面を被った寸劇、皇太子夫妻の肖像画、それらは物語(これが物語と呼べるようなものではなかったとしても)の内容とは、直接的には関係しないが、頭の中にはやけに直接的に響いてくるものばかりだ。 ■もちろん人力飛行機の夢の話である。海岸で彼が走る。おそらく風の方が強い。おそらく冬の海岸である。映像化された人力飛行機はいくらかしょぼい。70年代の鳥人間。おそらくカメラも一緒に走っている。だから画面の揺れに見ているこっちも酔ってしまう。いや、魅せられてしまうという意味ではなく、吐き気がするという意味で。この映画、なんとカメラは鋤田正義。 ■随所に挿入される「落書き」の映像が素敵だ。寺山が好んで使う、マルローや、ジュネや、マヤコフスキーや、ラングストン・ヒューズの名言格言が巨大な壁に、あるいはグラウンドに、あるいはビルの壁面に映しだされたシーンの雄弁さといったらない。「重力ピエロ」の例の彼も遅れてきた寺山修司なのかもしれないな。 ■寺山はサッカーをまるでラグビーのように描く。もともとこのスポーツは戦場で頭蓋骨を蹴りあったのが始まりと言われているが、それを意図的に映像化してみている。今の時代からすると、このサッカーは時代錯誤である。システムとか戦術とはかけ離れた紀元前的描写。でも70年代の日本におけるこのスポーツはこうして捉えられていたのかもしれない。今、寺山が生きていたら、きっと現代サッカーには夢中にはなっていないと思う。そのボールの大きさ以外にはね。 ■何が決まっていて、何が決まっていなかったのかが、すごくわかりにくい。だからフィクションと現実の繋ぎ目がわからない。役者についても即興なのか、演技なのか、そのどっちでもないのかよくわからない。ただその中で、ひときわ丸山(美輪)明宏が美しい。毛皮のマリーさながら、本末転倒の世界の住人を演じている。そして新高恵子の妖気!そうだ、最初に見た時の強烈インパクトはこの人の存在にあった。 ■おそらくこの創作はある種の実験であって、寺山の数ある作品群のひとつに過ぎない。映画という技法の中で楽しそうに遊んでいる。この表現の限界ははやりスクリーンにあって、ある程度の暗闇がなければ、あるいはそれを破いてしまえば、届かなくなってしまう世界である。よって、この作家の本領は演劇という形式において最も発揮されるものだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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