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テーマ:おすすめ映画(4021)
カテゴリ:映画
■尾道から東京にやって来た老夫婦(笠智衆・東山千栄子)を優しく迎えたのは実の息子(山村聡)や娘(杉村春子)よりも戦死した息子の未亡人(原節子)の方だった。実は今回この映画を見直して、そんな定番のあらすじに対して、ふと違和感を持った。
■つまり長男も長女も上京してきた自分たちの親に対してなんら冷たい仕打ちをしていない。彼らが到着した夜には長男の家で申し分のないもてなしをするし、長女もわざわざ、そこにやってきて一緒にふたりを出迎えている。デパートに連れて行く約束が反故になったのも急患のせいだし、熱海旅行を勧めたのも彼らの止ん事無い日常の仕事の都合のせいであって、決して厄介払いには見えない。 ■それなのに、ことさら老夫婦が寂しそうに、哀れに感じられるのは、実はそこにあったはずの団欒の描写が意識的にこの監督によって取り除かれているからというようには見えないか。きっと子供や孫に囲まれて笑い顔の笠智衆と東山千栄子はそこにはいたはずだし、山村聡も杉村春子も三宅邦子もそんな両親の笑顔を見て幸せな気分でいたに違いないんだ。けど、この映画にはそんな場面は必要ないと小津安二郎は思ったんだ。 ■老夫婦が望んだ歓待のイメージが100%自分たちを受け入れてくれるような彼らだったとしたら、すでに新しい家族を構えている長男や長女の家庭においてはそれは実現不可能な夢に過ぎない。なぜならばそこに自分たちの入り込むべきスペースはどこにもないわけだから。逆に原節子のもてなしが彼らの胸に浸みるのは彼女には彼らを受け入れるだけの不在感があったからだというのは少し穿った見方過ぎるだろうか。 ■引き算の映画だなと感じるのは冒頭の老夫婦の会話に割ってはいる隣のおばさんという構図がラストでもそっくり繰り返され、その画面の空白がことさら妻の不在を引き立たせている所だろう。X+Y=Z という公式を X=ZーY または Y=ZーX という形で見せる方法。ただ東山千栄子がいなくなる物語がこの映画の喪失の全てではなく、些細な小物を含めて色んな物が無くなったり忘れられたりする物語でもある。空気枕やこうもり傘のように。 ■全編小津の箱庭のような映画である。タイトルバックの題字はもちろん、劇中使われた提灯の字も彼の自筆だという。微細に配置された小道具ひとつひとつにこの人のこだわりが垣間見られる。画面右隅に置くビール瓶は6本、うち1本はラベルが見えていて1本は横に倒れている。原節子の住んでいる団地の部屋にはこんな調味料が置いてあってガラスにはところどころヒビが入っている。それらはリアルと言うよりは彼の美意識と呼んだ方が好ましい物ばかりだ。 ■俳優の演技とて同じシーンをテストを含めれば何十回も繰り返し、どれがベストショットであるかは彼の思惑ひとつで決まり、ボツになったフィルムはそれこそこの映画があと10本くらいできる量だという。杉村春子が絶妙の芝居を見せても相手役がそれに応えられなければ何回も撮り直し、結局は最もそこに映る役者の姿が自然な物がチョイスされる。基準はすべて小津の中にあり、できあがった物を見るまでは役者のみならずスタッフを含めて誰もこの作品の真意はわからない。 ■熱海の宿の眠れない老夫婦、翌朝の堤防に腰掛けたふたりの後ろ姿、立ち眩む東山千栄子を気遣いながらよろよろ歩く笠智衆。もうそのあたりから私はこの映画を正視できない。それは年老いた両親を幸せにしてあげるイメージが自分自身に浮かばない事が大きな理由なのかもしれない。母の葬儀で遅れてきた次男(大坂志郎)がいたたまれなくなって席を外す。あの木魚のポクポクという音を聞くたびに母が小さくなっていってしまう気がする。このセリフがまた涙腺を刺激する。私は死ぬまでにあと何回この映画を見るんだろう。60になった時に見れば意外にもう涙は出ないかもしれない。意外にそういうものかもしれない。 PS ■この映画で70才の老け役をやった笠智衆は当時49才だったという。背中には綿を入れ髪には白粉を塗っていた。49才かぁ、私もいつまでも子供側の気持ちでこの映画を見ている場合じゃないじゃないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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