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カテゴリ:読書
■河内音頭である。音頭といえば夏祭りである。浴衣を着て踊る。少しほろ酔いである。腰をくねくねさせるよりむしろ手を上下左右に動かすのである。ステップも難しそうだ。マイムマイムも苦手なわたしは盆踊りの参加経験がない。
■誰かの歌に合わせて踊るのである。やーっしょーまかしょとかそーれそらそらとか合いの手を入れながら踊るのである。阿呆に見えないこともない。見ているだけでも阿呆にされてしまうという勧誘が強引である。同じ阿呆なら踊らにゃ損々。コピー大賞ものの誘い文句ではないか。 ■その時、歌い手が何のことについて歌っているのかということは意識の外である。でも後でおれたちが一生懸命踊っていたのは人殺しの歌だったんだってよって聞かされるのはなんだか複雑な気分だ。マドンナの歌に合わせて踊ったディスコであの曲は堕胎の曲でしたと知らされた気分に似ている。 ■町田康はその昔、町田町蔵だった。INUというバンドを組んで「メシ喰うな」というアルバムを出した。PUNKが日本語で歌われたはしりだった。それを聴いた観客は踊った。手よりも頭をブンブン動かしながら。浴衣を着てその場に現れる女性はほとんどいなかった。 ■パンクな時代小説である。元ネタは明治何年かに河内地方で実際に起こった一家十人殺傷事件である。一家に十人もいるのが流石に明治だ。熊太郎という名の犯人は容赦なくその家族を皆殺しにしてしまうくらいの恨みを彼らに対して抱えていたらしい。 ■そんな熊太郎の心の中を描いてみるというのが町田康がこの小説を書き始めた動機だ。河内の話だから全編河内弁である。そこでは雄鶏は二人称のあなたのことを指し、ドイツ製の樽はあなたを殴り倒したいという意思を表す。 ■外国語のようだが同じページ数(中公文庫版は850頁)のペーパーバックを読むよりは時間がかからない。それでも関東在住のわたしは1週間かけて読了した。ロシア語だったら80年かかるかもしれない。 ■文体がパンクである。明治の話なのに現代の風俗がカタカナで突然挿入される。熊太郎の心の叫びだったはずが急に視点が作者のツッコミに変わる。葛木ドール、葛木モヘアという名の鬼が出てくる。そんな名前ありえないってわたしもツッコミながらその不思議な風景にやられる。 ■自分の考えていることが自分の言葉にできない男の話である。気持ちが伝わらないという苛立つ気持ちがすごくよくわかる。でも彼にははどうしたら自分の考えをそのまま言葉に置き換えて他者に伝えることができるのだろうという論理構成が抜け落ちている。 ■頭の良い男の話を書くより頭の悪い男の話を書く方が難しいのではないか。正解があってそれに向けて進んでいく男の話よりなんでお前そこで間違えるんだよと舌打ちしながら同じようなことを繰り返す男の話は骨が折れる。 ■それでも町田康が熊太郎の生涯を書ききったのは途中で放り出すことができない何か切ない魅力みたいなものがこの男にあったからなんだと思う。そしてわたしがこの分厚い小説を途中で放り出すことができなかったのは盆踊りに行きたくなかったからではなく、こんな人間万歳音頭が大好きだったからなんだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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