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日本の教育の中で,なぜ筆記試験はこれほどに重視されるのだろう.少し教育について書いてみたい.
思考を十分に練ったわけではなく,かなり「単なる思いつき」に近い意見である.あとで「路線変更」が必要になるかもしれないが,今は「思いつき」を書き留めておこう. 教育は時に優しく,時に厳しくあるべきだ.そう一般に言われるし,確かにそういう教育もあるだろう.しかし,たとえば外国語の教育については,「厳しく」は不要である,と私は思う. 中学,高校,それに大学4年を加えて計10年.あれほど勉強させても英語が話せるようにならない,という嘆きをよく聞く.今は状況は改善されていると思うが,学校教育がめざましい成果を上げているようにも見えない. なぜ英語が身につかないのか? 子供は発育につれ自国語を自然に習得する.このプロセスを妨害する有効な方法を私は知っている,と思う.それはムチを手に持って監視するのである.間違った単語,間違った発音,間違った用法.とにかく何か間違いを犯すたびにムチでピシャリとたたく.徹底してそういう教育をする. すると子供は自然に寡黙になるだろう.間違いを恐れて,言葉を口にしなくなるだろう.そして自国語を十分に習得できずに終わるだろう. これと同じことをやっているのが,学校教育の英語である.英語の筆記試験は最悪だ.そこでは「間違えない」ことが,とても重要になる.間違えたら減点される.ムチでピシャリと叩かれるようなものだ.こういう教育の結果,子供は「間違える」ことを極端に警戒するようになる.言葉を口にしようとしない寡黙な生徒が,こうして大量生産される. 子供が自国語を習得して行くプロセスでは,じつに多くの間違いを犯す.間違えることは学習過程の重要な一環である.間違えることを禁止したら,言葉は習得できない. 「教育は時に厳しく」は外国語教育には適用できないと思う.厳しくすることは無意味であり,有害であるからだ. 少し補足. 伝統的な学校教育では,外国語を読み書きする能力の育成に力点が置かれてきた.そのために筆記試験が活用されてきた. 本当だろうか? 「読み書き能力の育成」という目的と,「筆記試験」という手段,ですか? 私には「手段」が先行して「目的」が後からついて行っているように見える. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 15, 2011 03:38:35 PM
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