「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳があるって聞いたんですが・・・」
という質問を受けました。
三文「そう言いますね」
質問者「どうなんですか?」
三文「どうでしょう?調べときます」
もともと、遍路の元祖と言われる「衛門三郎」の話から
きていると思われます。
伝説によれば、
伊予に強欲な「衛門三郎」という長者がいました。
弘法大師はこの「衛門三郎」を戒めようと托鉢に
門前に立ちました。
しかし、衛門三郎は弘法大師を追い返します。
あくる日も次の日も大師は門前に立ちますが、
ことごとく追い返されます。
ある日、門前に立った大師をみて、衛門三郎は
大師をののしり、大師の持っていた鉢を取り上げ
地面に投げつけます。
その鉢は八つに割れ、大師は姿を消します。
翌日から衛門三郎の八日間に八人の子が次々と
亡くなります。
この期に及んで衛門三郎は自分の行った罪に気付き
弘法大師に謝ろうと大師を追って四国を回りはじめます。
そして、21度目の遍路で阿波の焼山寺の下で、疲れ果て
命尽きようとするまさにその時に、弘法大師に出会い
懺悔します。
その折、望みを聞かれた衛門三郎は、
「伊予を治める河野家に生まれて人々を楽にしたい」
と答えます。
弘法大師はその望み叶えようと衛門三郎に小石を握らせると
そこで息を引き取ります。
何年か経って、伊予の河野家に男の子が生まれました。
しかし、手を握ったまま開きません。菩提寺の住職を呼んで
祈願してもらうと、手の中から「衛門三郎再来」と書いた
小石が出てきました。
その赤ん坊は長じて立派な国司になったと言います。
衛門三郎を埋葬した場所に立てた衛門三郎の杖が芽をふき
巨大な杉となり「杖杉庵」と呼ばれました。
また、「衛門三郎再来」と書かれた石は菩提寺に収められ
「石出寺」という名前に変わりました。
以上が伝説ですが、こんな見方もあります。
遍路の元祖、衛門三郎に異議あり!
さて、衛門三郎の実像は弘法大師を目指して山野を駆け巡った
修行者だったのではないとも言われています。
実際に志半ばで行き倒れた修行者が遍路の元祖として
人々の心の中に残ったのかも知れません。
何の話でしたかね???
そうそう、
「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳があるって聞いたんですが・・・」
これですよね(*^_^*)
実は衛門三郎が「逆打ち」していたという話があるんです。
弘法大師は「順に廻っている」はずだから、
衛門三郎が何度も廻っても弘法大師に会えないのは、
自分も「順で廻っているから」で「逆に廻れば」出会うはずと
考えて逆に廻ったという話があります。
「逆打ち」はここから来たのではと考えたんですが・・・
「閏年」が判りませんね。
インターネットで調べてみると
「衛門三郎が廻り始めた年が閏年」
「衛門三郎が弘法大師に出会った年が閏年」
「さらにその年は832年」
年まで確定されている!(@_@;)
ちなみに、こんなのありましたよ
「閏年の2月29日に88番と1番をお参りすると
お大師様に会える」
ところで、「衛門三郎」の話っていつ頃成立したんだろう?
謎に思って書物を紐といてビックリ!
澄禅の「遍路日記」1653年
寂本の「四国遍礼霊場記」1689年
この二つの書物に書いてあります。
澄禅・寂本という高僧がこんな話を真面目に
書いているのにビックリ!(@_@;)
さらに、書物をひも解くと、頼富本宏氏の
「四国遍路とはなにか」の中で、「閏年」の根拠を
発見しましたよ!(*^^)v
衛門三郎の屋敷跡と言われる文殊院に伝わる
「衛門三郎四行記」によれば
弘法大師の巡錫は天長元年(824)
衛門三郎の再来は天長9年(832)
衛門三郎の生まれ変わりは河野息方(伊予河野家7代目頭領)
河野息方という人が何をしたのかよくわからないのですが
有名な弘法大師の弟子?の生まれ変わりということで
施政を敷いたんでしょうか?
さて、弘法大師の天長元年は史実では
2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。
3月には少僧都に任命され、僧綱入り。
6月に造東寺別当。
9月には高雄山寺が定額寺。
忙しいですね(*^_^*)
これでは四国へ渡る暇はないのでは?(*^_^*)
結論としては、
「閏年に逆打ちで四国遍路すると功徳がある」
のについての云われは不明ということでしょうか(*^_^*)
ただ、四国遍路を仏教的な「行道」と考えた場合には
時計回りに廻るべきで、逆回りはしませんね(*^_^*)
「逆打ち」という特殊な廻り方をする以上は
「閏年」という特別な年でないといけないという
ことでしょう(*^_^*)
「順打ち」より「逆打ち」が功徳があるとも考えられません。
ただ、逆に廻る方が多少、宿や道の関係で廻りにくいとは
思いますが、一般に云われる「3倍の功徳」ほど困難とは
思えませんね。
いかがでしょう?