美術館でも博物館でも、小学校から勉強にきます。
それぞれ、学校によって、その生徒の雰囲気に何か違いがあります。
元気であったり、大人しかったり。
今日は、美術館で、大久保の小学校の鑑賞会がありました。
ビックリしたのは、ここはとても国際的だということです。
韓国、中国、タイ、フランスの子どもたちがいました。
中には、日本語が分からない子どももいます。
日頃の授業はどうなっているのだろうと思いました。
博物館に来た子ども、多くは、自分の好きな所に走っていくのですが、先日の子どもは、説明をきちんと聞きます。ちょっと緊張しました。
時間がないので、早足で見て回ったので、ボロが出なくてすみました。
でも、昭和初期の新宿の所に、中村屋の「カリーライス」がありました。
この「カリーライス」そっくりな模型が出来ていて、しかも匂いがします。
ショウケースの隙間から匂いをかいでもらったのですが、一人の子から、「なんで、カレーでなくカリーなの?」と聞かれました。
「インドでは、カリーと言って、中村屋のカレーは、本格的なインドのカレーなので、インド風にカレーというのだよ」と答えましたが、自信はありませんでした。
そこで、帰ってから調べました。
インド人たちは、「カレー」といわず「カリー」(正式には、英語のCURRYカリー)といい、語源は北インド言語のタミール語のカリ(Kari)からきているとのことです
大正7年、中村屋の創始者は亡命中のインド独立の志士ビハリ・ボースを官憲からかくまい、そして娘の俊子と結婚させました。
ビハリ・ボースは、妻・俊子にカリー本来の味を伝えたい一心から、カリーの生命となる10数種類ものスパイスを求めて世界を巡り、苦心の末に日本で初めての純インド式カリーを昭和2年に完成。中村屋喫茶部開店を飾るメニューとして、出しました。
当時のカレーは、10~12銭だったところ、中村屋は80銭という値段で、カリーとライスは別盛りでピクルスも付いた庶民には手の届かない高級料理で売り出されたそうです。
8倍です。すごく高いものですね。
でも人気を呼んだようです。
今は、1300円ぐらいですから、そんなに高くないですよね。
それでは、日本にカラーが入ってきたのはいつかと言うと、明治の初年にイギリス経由で入ってきたのが最初のようです。
江戸時代最後の戯作者、仮名垣魯文の「西洋料理通」(明治5年出版)にカレーの作り方が出ているようです。
カレーライスが普及 したのは、日清日露戦争後のようです。
日清日露戦争当時、日本海軍は脚気に悩まされて、食事を、パン食、洋食に切り替えていきます。
その中で栄養のバランスがとれ、保存の効くカレー粉を使用した料理が多く採用されるようになり、そして、除隊した兵士達がカレーを全国に広めたと言います。
「カレーライス」という言葉が使われ出したのは、昭和に入ってからで、それは、中村屋の「カリーライス」が切っ掛けになっています。
ちなみに、ご飯の上にカレーがかけてあるのがライスカレー、別々になっているのがカレーライス、などということがまことしやかに言われますが、本当かどうかは分かりません。