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サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関<若松コロニーとシュネル:SERIES(WAKAMATSU COLONY & Schnell) |
シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.11 |
■各人物、資料編_No.3(=若松コロニーSERIES_No.11) The Wakamatsu Colony: Gold Hill(会津人のカリフォルニア)
Sec.1<・・・<Sec.9<Sec.10<Sec.11:各人物【資料編_No.3】(現在頁)<Sec.12・・ |
この前の部分から読む、 ■現在頁から、各人物、資料編です。 流れ&解説はSec.1から順番にどうぞ。
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現在頁内MENU:77_情報の多少残るメンバーについて |
■このシリーズ全体目次 ■桜井松之助と 増水国之助頁はこちら ■日本国内会津藩の
その後と、若松コロニーの 動き(略型比較表) ■若松コロニー: 開始から崩壊、事象解説
| 項No.77_若松コロニー:
情報の多少残るメンバーについて
(No.1~No.32)
- シュネルと大工達その結びつき
- その時のシュネル親子
・考察幼年時のシュネルとバタビア - 【メイン3名】
桜井松之助 - 増水国之助
- 伊藤(または伊東)おけい
- 西川友喜
▲情報不足ながら、実は非常に 重要と思える人物 - 手記の主を推察
- 研究者達による参考情報
◇メイン3人以外の小情報 ◇柳沢左吉について
- 【他メンバーについて】
■西川友喜 ■大藤松五郎と、Daid_Jiro - 【他メンバーについて】
Fred Dielbol:(スイス人
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- ■国勢調査を調べてみた内容の羅列MEMO、
■考察&追記&解説 ■14種類世帯主&準世帯主、妻帯者6組、 若者辛うじて26人拾えた内容
- 【他メンバーについて】
別の史実から後日指摘されたコロニー出身者
項No.78 _ビアカンプ隣人愛と、カリフォルニア開拓家族 ・veerkamp家の二つの「隣人愛」史実
項No.79_プロシア系人々の カリフォルニア開拓_その1 ・シュネル紐解くお材料の破片
NEXT頁▼Sec.12
No.80_サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった 頃のプロシア人とスイス人考察
No.81_ビアカンプ家メンバー
・カリフォルニア三代家族詳細の項目から各種 ・シュネル紐解くお材料とプロシア系アメリカ人
・・・他各種
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77_若松コロニー:情報の多少残るメンバーについて |
若松コロニー概要と事象説明についてはこちら |
初っぱなから、ひとつ言い訳させて頂きます!- 当時の文字による古いデータ(国勢調査)などを四苦八苦判読の結果、そう見えた字!
を明らかに変!!ながら、あえてできるだけ、その変!なスペルもご参考までに書いてます。
- 私が自分で、きっちり解決できる前に死んでしまったら困るから!!恥丸出し!覚悟で、
あえて書きました。ご研究皆様にお任せします。
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33・ | シュネルと大工達 その結びつき |
■シュネルの屋敷は、木材町。この町には大工が多く住んでいた。 ■おけいの家も、多説ある中、大工の娘説有力。商家説もあるが。 |
考察!幼年時のシュネルとバタビア |
34 | シュネル親子
1870年7月国勢調査 (アルファベットは表 記されてる形)
■Schnell John: シュネル(29歳)、 ■妻。Jou (24歳:日本人)。 ■Francess(2歳)女子 ■Mary(2/12歳)女子 | シュネルについては別途専用頁後日準備予定。現在頁では、とりあえず、 実際国勢調査を調べてみた結果だけ書きます。
シュネルの国名判読&推測につながりません。【変なスペル】:Henna Darnoslull?? 一般にはプロシアかオランダと言われています。シュネルの父はバタビア(当時オランダ植民地)に 赴任していたことと、スイスにも元から何か縁のある様子。日本に来た頃10代半ばであること
と、父が一定の場所に永住するタイプでないことから、バタビアがらみ、および念の為、スイス生まれ なども含め、想像力をたくましくすると、色々考えられる人物です。 以上をふまえても、真上の変なスペル、スッキリしませんが、ご参考まで。
私が専門家のごとく、断言する気はありませんが、多少、調べてみたところ、下記のとおり。
【シュネルとバタビア:私的考察結果】- 【変なスペル】:Henna Darnoslull??について:
調べたところ、「Darnoslull」部分がもしも、「Darnoslul」だとすると、
オランダ語でインドネシア。当時の言葉では、 バタビア(Batavia 現在のジャカルタ(Jakarta ) ) の植民地。 ■そこで、私の考えとしては:
「 Darnoslul(=現在のJakarta=当時のBatavia)のHenna」で生まれた! もしくは、生まれは別でも、籍は当時のバタビアのままだったかのいずれか。
(hennaか、hannaか、hena等調べてみてください。時代や国によって色々表記ありそうです。) バタビアでの父の軌跡が判然とすればいいのですが、専門家が誰も提唱してくれませんから、
またしても四苦八苦してます。
- 1870年7月国勢調査(変なアルファベットは表記されてる形を四苦八苦判読?!)
- 到着年の1869年は、マイナス1歳。シュネルは28歳だったことになる。
日本国内の藩士達による文章にも、30歳位の外人とあることから大体ニアピン。
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・メイン3名 | 桜井松之助、増水国之助、伊藤(または伊東)おけい |
35 | 桜井松之助 ・士分 |
この人物については、こちら桜井コーナー。 生没:桜井松之助(1834-1901):67歳で死亡。コルマのヤード墓地。コロニー崩壊後、 救済者ともいうべく存在のビアカンプ家に働き、生涯を捧げて天昇。 |
36 | 増水国之助 ・高度技術の宮大工 |
この人物については、こちら増水コーナー。 生没:(1849-1915)、墓地はコルサ。66歳で死亡。 |
37 | 伊藤(または伊東) おけい
死亡:1871(明治4) 19才で死亡。 | ■シュネルの子の子守役。奉公娘。
■大工:伊藤文吉、お菊の長女と言われる。 ■死亡:1871(明治4)19才、■死因:熱病または、肺炎、■死の数日前に、早く独立していた 増水国之助の長男出産祝いに駆けつけ、間もなく死亡したとは、増水のご子孫の記憶発言から。 ■生年の推察:
- 上記のとおり、死亡から逆算すると、1852年位の生まれとなる。
下行のビアカンプ家ご子孫記憶発言の「ヘンリー・B・ビアカンプ(1851年生まれ)」との 年齢差と調度一致する。 ■墓:ビアカンプ氏の敷地内。桜井松之助によって墓は建てられた。 ■他に、ビアカンプ家の人々の記憶から=1代目の末っ子ルイの息子=マルカム氏の記憶- おけいさんは英語だめ。日本の着物を着てる。父に料理作ってくれたらしい。
- 二代目農場主のヘンリー・ビアカンプ(1851生まれ)より1歳位年下と父が言っていた。
このヘンリーとは、つまりルイにとっての長兄。 ■ひとつ不思議なこと:1870年国勢調査でOKEIの名前発見できず。 |
38_西川友喜:情報不足ながら、実は非常に重要と思える人物 |
38
西
川
友
喜 | 西川友喜
Jenhejawa_Tam Kenhejawa Nerheiawa Tomk |
■この人物は情報不足ながら、かなり重要と思える人。 上記のとおり、手記の主として、確率高い。 但し、帰国してしまったことと、明治の世、改名したらしきも想定範囲。 尚情報不足。 ■左の変!なスペルは国勢調査でらしき18歳&上段にある人物の
四苦八苦判読の結果、そう見えた字!・・・変!ですがご参考までに) 本当は(NISHIKAWA TOMOKI)のはず。 ▼
外国人の研究家の目には、「Nishijawa Tomke」と判読できたらしい。
・・(Nishijawa Tomkeとは変なスペルながら、当時はローマ字の共通規定が存在してなかった為、
記載した役人によって、様々な表記有り:今日感覚では恰もニシジャワトムケ!で変だが、当時は、
こんな状態。ここから手繰って当該を考察しないと、研究&発掘できない。)
■それはさておき、私的には、手記の断片を残した人物はこの人では
ないか?と考えています。その訳と、別仮説は、すぐ下二つの枠 |
■西川友喜(生没年不明)、士分。会津藩士。正真正銘の武士階級。別説、西川三平とも。 米国内での情報一切不明。1870年7月の国勢調査にNishijawa Tomke の名前で記載があるとされる。 上記、四苦八苦判読結果と、まあ大体一致。
■実際調べて発見できた限りでは、西川は18歳で身分高いのが解る。
◇ NISHIKAWAを実際、アメリカ国勢調査で調べてみたところ、Jenhejawa_Tam?(18男)発見。 - 当時の役人さんの手書き文字、筆記体。達筆?!すぎて、日本人の私としては、判読困難なんですが、
『Nishijawa』でなく、『Jenhejawa_Tam』等の変!状態に見えてしかたないんですが・・・ 多分これが彼と思います。18歳の人物ながら、堂々リストの上層部にあります。 - 氏名リストの内、シュネル夫妻に続いて、かなり上段にその名前を発見できる。
- 40代で苗字を持ち、妻子同伴の者もあるが、それよりも上に名があることから、士分として、
家格が高いと思われる。もしくは、下記内容のとおり、家格そのものよりも、シュネル関連者の血縁 の可能性も、私的に感じています。
- 【写真に係る浪漫推測は別途、別頁にご用意しようと思ってます。】
■写真の中、実は、あくまで私的推量の領域であり、決定付けられた証拠はありませんが、
この人物が恐らく彼だろうと思えるものを見つけました。(人物不明とされてる中)三人の日本男性
写真の中、明らかに少年と解る人物が、他の大人2名よりも堂々とデン!と中央の椅子に座っています。 他男性2名は、彼のサイドに僕のごとく寄り沿って立ってます。17から18歳の場合、現代なれば大人と
同じ大きさですが、この時代はまだ成長期。この少年は、あきらかに他二人よりも小さいです。
若いくせに大人2人より偉そうにしている姿が、上記の英文内の「高カースト=高い身分」を示唆。
■余談ながら、容姿端麗。堂々。なんとなく二世に見えぬでもない容姿。純潔日本人でも稀にこうした 顔立ちも居るが、気になる。西川家のご子孫による資料は、残念ながら存じませんが、堀が深くて 微かに外人さん風を漂わす目、ハイカラ系美男子系が多い家系なれば、まさか!と笑わず、ちょっと
調べてみて頂ければ、嬉しいところ。
- 尚、シュネルは、到着早々、日本人達のコロニーの存在を、アメリカの皆に理解を求める目的で新聞に情報を
公開している。その時、文章を書かせるメンバーとしては、英語達者な者が居たらシュネルとしては楽。 この頃、外語が可能で博学と言われる藩士達の多くは、通詞のような専門家とは異なり、一般的 には、オランダ語チョロチョロ程度の者が殆どだった。
そこで、いかに文才があり博学多識の侍が居たとしても、書いた文章を、シュネルが訳して書き直す手間 が生じる。その点、英文書ける人物が居たとしたら、その人物に書かせるはずと思う。 とすれば、この少年は、もしかすると、英語が、もともと楽勝だったかもしれない。- 詳細は、後の頁に譲るところながら、シュネルには弟も居れば、友人も居ます。その内、
弟に関しては、この頃20代後半のはずですから、まさか、17歳の息子が、どこかで出来上がって いるわけはないですが、友人側なれば可能性有り。
ますます、西洋の血混入を感じます。 ▼ それは推量の世界ながら、仮にそれが事実な場合、手記らしき文章内に、「侍は唯一、桜井だけ」と 書いた原因も、恋人を侍の娘と表現した訳も解る。
日本でいえば自分も士分ながら、父が外国人ならば、己の存在を、日本の侍というよりも、別の存在のごとく 認識していたとしても不思議がなくなる。(この場合、おそらく母が侍の娘で、なりゆき籍は日本か
■John E. Van Santによる資料にも、NISHIKAWAは高カーストと思われるの表現も有り、それらは、だいたい一致する。
■西川友喜(≒?三平)同一なのか別人OR家族かなど詰めの裏付資料はないが。
- 西川友喜と西川三平
■早乙女貢:続:会津士魂:六反逆への序曲 によると、西川友喜のように日本に戻って きた者もいたが、多くはアメリカで亡くなった・・・とある。
■別途別本資料から、発見。 星亮一:会津藩斗南へ: 誇り高き魂の軌跡内資料頁内に、西川友喜有り。 この資料は、若松コロニーには無関係の一般リスト。しかしながら、 そのリスト内一覧の中、明治6年の米田村:福島県寄留を発見。
- ▲つまり、彼は黙して、明治政府に仕官したことが解る。
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39_手記の主を推察 |
手記らしきモノの断片を残した人物として推測される人物について |
39 | ■【推論1】_(前半):増水+後半:(後半)桜井パターン ■【推論2】_実は、西川友喜(≒?三平)一人で始終パターン- ■【推論1】_(前半):増水+後半:(後半)桜井パターン
- 文章の前半、「私は18にもなってなかったので」表現。増水は1849年生まれと
推測される人物。コロニーへ来た1869は20歳でありやや矛盾するが、他表現 内に、「唯一士分の者は桜井だけ」とある。また、日本に置き去りにした恋人を「侍の娘」と表現。
- その為、当サイトでは、シリーズ内No.1からNo.6位までの主人公男性を増水仮定で書いています。
(増水は侍でない為)
- (後半)桜井仮定で書いた訳:
「そして、子守娘と、残るは、ついに私一人になった。」表現有り。 最後に残ったのは、桜井しか居ない。
- 【推論2】_実は、西川友喜(≒?三平)一人で始終パターン
- 実は、これ、案外確率高い。まず、年齢はぴったり、18歳直前は一致。
- ところが、西川友喜は正真正銘の士分。にもかかわらず、その文章に「唯一士分の者は桜井だけ」とある点、
矛盾するようでいて、自分は当たり前なので、そうゆう表現を使ったとも考えられる。 【上記、仮に二世なればの仮説もご参考下さい。】
- 恋人をわざわざ「侍の娘」と表現した点も矛盾するが、アメリカの人が解りやすい
ように、あえて書いたかもしれない。本来なれば士分の少年の恋人は士分の娘 当たり前だが、照準をアメリカにしたかも。 - 西川は、結果として帰国して、その後は、この件「だんまり黙秘」のごとくで、
裏付無し状態。静かすぎて情報を一切拾えない。実は、案外ぎりぎりまでコロニー に居たかもしれない。「そして、子守娘と、残るは、ついに私一人になった。」表現は、
シュネル亡き後、群れを束ねる地位の桜井は、当然すぎる為、除外で書いたか? などの考え方もできる。 - この人物は、色々調べたところ、後に、明治政府に士官している者と解った。
若松コロニーの件は、当時の士官者にとって、マイナス要因。当然、自ら語ったりしない。 - 文章内に日本特有の古典知識が豊富な点も、やはり彼かもしれないと思える。
- この文章に、二世の血と英文達者らしき臭いと、それでいて
日本育ちの知識もある人という点を感じた理由について。
- 下欄の農民か大工の家族と思われる一団にも、18歳前後は居ますが、
文章内に、産業革命がどうしたこうしたといった知識やら、古典知識豊かな点から、そう感じて います。農民達が、多少古典知識があったとしても、多分産業革命は知らないと思います。
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40_研究者達による参考情報 |
40 の A | ■【上記メイン3人】の他2人の情報あり表現有。
- カリフォルニア州、 ロサンゼルス郡、サンマリノの町にあった情報。
■エルモリーノビエホ(エルモリーノヴィエ) で 「判事EJC科用の従業員(houseboys)」として勤めた日本人2人の形跡有。
二人共、若松コロニー出身とされる。 【考察】 但し、このうち一人は、上記「増水国之助」の可能性有りと思う。 なぜならば、彼はかつて、裁判の通訳もやったことがあるとご子孫の記憶有り。
- ■はじめ本人家族側近込み6人と、約3家族=14人。その後増えた。
■1870/07/01時点:22人の内訳:14人は男、6人は主婦、2人は若い娘。
【考察】
・・・2人は若い娘!こりゃなんだ!!おけいさんの他にも未婚の女性!! ・・・そういえば、宜しければこの頁どうぞ。この地で初に結ばれたと見える二人有り。 ■別説、35人説もある ■別件情報_この人物も若松コロニー出身ではないかと言われている人物について
▼ 柳沢左吉(生没年不明とされるが、調べてみたところ、1847年生まれの人物と思われる。) ▼ |
40 の B
柳
沢
左
吉
| 在米日本人に係る資料を調べてみたところ、- 柳沢左吉とは、1869年若松コロニーのメンバーとして渡米。
1872年、岩倉具視遣米使節団がやってきた際、彼の外語能力が岩倉の目に止まり、日本帰国を許され、
再渡米後、オークランドにレストラン経営成功。また、その娘、ユナは優秀。資料内、娘情報は、明治6年生まれ。 カリフォルニア大学卒業後、さらに、医科大学も卒業とある。 尚、柳沢左吉の出生詳細不明ながら、信州出身とされている。
- 【解説】コロニー崩壊後、柳沢左吉はアメリカで、どうにか頑張って生きていた。
- そこへ、1872年、岩倉具視遣米使節団がやってきた。この頃、ほんの1~2年前と異なり、岩倉、とても寛大!
密脱国だの、賊側藩(=戊辰時徳川指示系の者)だの言わない。他にも随分同様立場の者が居ます。原因は 外語能力と見聞経験。能力、一芸有の者には特別罪を問わず、むしろ我が国が受け止めよう!の意発言&実行。
国勢調査拾ってみたところ、上記とだいたい一致。しかしながら、ご子孫に若松コロニーうんぬんが 語り継がれていない限り、その点資料は不明。
◇Yanagisawaは:1900年時52歳:入国は1869年:時に31歳:1847年生まれ ◇その娘のunaは:1900年の時点で26歳とある。入国は1883年:時に17歳:1873年生まれ
他に、近い年次の類似名
▼ ◇Yanagisawa Matabe:1900年時26歳:入国は1894生:1873年生まれ:入国時6歳 各見分けに「HEAD」がついている。 「PARTNER」各に: ◇Shiraishi ?injiro:1900年時19歳:入国は1899生:1881年生まれ:入国時1歳
(▲この人、どっかで有名になったはず。凝ると長くなるのでやめときます。) ◇?oobo ?_uwan??:1900年時20歳:入国は1897生:1880年生まれ:入国時3歳
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・他メンバーについて 注:手掛かり情報を列記 |
一部矛盾したり、重複の可能性もあり、気になりますが、あえていじらず情報列記。 |
41&42:国勢調査を実際調べた他に、資料情報を加味できた人物の内容 |
41 | 大藤松五郎 Daid_Jiro | 国勢調査:Daid_Jiro(46歳)、妻(42歳)、子(2歳)
- フレズノ市にある仏教大会堂、及び、コロマ・ホテルの建造者として、
名前が残る人物名に「大藤松五郎」がある。(オオフジと読まず、ダイドー - 増水国之助情報からすると、この建造は、増水本人と師匠のダイドーと一緒
に行ったという話から、この人物またはその兄弟の確率多大。
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42 | Fred Dielbol (スイス人 |
国勢調査:スイスのDierbol_find(24歳)に見えるが、どうやらFred Dielbol, 国勢調査を実際判読チャレンジの結果 ▼ Switserland:Wine Maker:Dielbol Find:24歳(男) (スペル変!だけど、まず、コレ=彼には間違いないでしょう。)
【裏づけ資料有り:大意】 スイスの"ワインメーカー、"Dielbol”は、若松コロニーの一人として入植。
彼は、日本からのブドウ苗輸入着手の可能性があります。
■シュネル家族の他、実はスイス人は明らかに同行しています。シュネルの弟 エドワードは武器商人になる前、時計屋さんもやってました。
スイス人のジェームス・ファブル・ブラント(James・Favre・Brandt)と共同経営。 その時の友人か、弟のエドワードがスイスの書記官をやっていた時の人脈か? それを史実がバシッと確定つけてくれてはいませんが、やはり無関係ではない
だろうと考えています。
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43_■国勢調査を調べてみた内容の羅列MEMO、■考察&追記&解説 |
43 | シュネル筆頭に同じ時期同じ船で来た人以外は、どこに 飛び散っているのやら、下記以外あるはずですが、探し難い。
- ■1■_シュネル家族:本人、:29歳(男)
- 妻、:Jou(24歳)
- 子供1:2歳:
- 子供2
- ■2■_ Dielbol Find:24歳(男)(スイス)
- ■3■_西川友喜Kenhejawa:18歳(男)
- ■4■_King_delyro(29歳男)
金次郎とか、そんなかんじかな?しかし、下記大藤より 上にあるから、苗字のある人かもしれない。 日本人マーク付きでもking!! - +妻(名前?)(24歳)
- ■5■_Daid jiro:46歳(男):大藤のことと思われる。
- 妻(名前?)42歳
- 子:2歳女:Takidado
▼以下多分苗字の無い人らしき 苗字の無い人の名前が、非常に判読困難。 但し、後ろにroがつくのは、多分、 太郎、次郎とかの郎と思います。
- ■6■_Tomelgaso (OR)Tomdjaso(29歳)男、
(日本人!全然苗字も名前もピンとこない:農夫
- ■7■_Sinsid(43歳男):農夫:シンジローとかかも?
- 妻:40歳
- ■8■_Sindyro:23歳:農夫
- 妻:20歳
- ■9■_Tasnejero:31歳:農夫
- ■10■_Kintaro:25歳:農夫
- ■11■_Junyano:19歳:農夫
- ■12■_Flyjero:23歳:農夫
- ■13■_Uuzezoro:31歳:農夫
- 妻らしき:30歳
- 子供らしき(女)7歳
- 扶養家族の男(弟か)Momojiroか?26歳
- 扶養家族の男(弟か)Amesulroか?23歳
- ■14■_Pakeru?:23歳:ほとんど読めない、わからん:
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シュネルチームの内訳 ・判読可能だった範囲。拾えた範囲。名前とか、 どーしても読めないのが多かった。
■尚、上記のとおり、判読に四苦八苦してますから、 スペル変!!かもしれませんが、ご参考迄。 私の判読が変!が大半でしょうが、日本人の名前 音声が変!なスペルになってる場合もあります。 当時ローマ字世界共通とかの便利状態じゃなかった。 (コレ言い訳でなくてホント)
■よくわかりませんが、カウントした限りでは、 単身者を準世帯主とみなすと、全部で14世帯。 のうち、妻持ち、または妻子持ち、厄介家族付 (弟等)が、6家族。
■遅れて別ブレーンで来たらしい者はこの中に いません。(拾い切れません!)
■この場合の年齢は1870年での年齢の様子。その為、 入植時の1869年はマイナス1歳と考えられる。 特に、シュネルの第二子については、諸説の中、 到着時2ヶ月説も散見しますが、多分、1870年生まれ の様子。
スイス人にご注目_Fred Dielbol
探したけれど、らしい人物発見できなかった件 ▼- シュネルは庄内藩からの銃代金受取りに際して、
二人の手代を使ってます。とてつもない多額の為、
よほど信用できる人物でなければ使えません。 その名は:文蔵、清次郎。 ところが、発見できず。
調べてみた結果の特徴:
1870年7月国勢調査: ■おけい、■増水国之助・桜井松之助、発見できず。 但し、この3人、明らかなので、問題無し。 ことによると、この三人、実はちょい遅れて到着 したチームなのかもしれない。何れにせよ、コロニー は短命の為、その誤差たるや、せいぜい1年未満。 |
資料編No.1<資料編No.2<資料編No.3(現在頁)<資料編No.4・・・ |
みんなの名前、変!なアルファベットについて- 当時の文字による古いデータ(国勢調査)などを四苦八苦判読の結果、そう見えた字!
を明らかに変!!ながら、あえてできるだけ、その変!なスペルもご参考までに書いてます。 - 私が自分で、きっちり解決できる前に死んでしまったら困るから!!恥丸出し!覚悟で、
あえて書きました。ご研究皆様にお任せします。
上の羅列メモの中、特に苗字のない身分の農民や大工さん達が、頑張って、アメリカの大地、生きて ご子孫が繋がってる情報解ったら、とても嬉しいですね。 名前の後ろに「ro」がつく人は、恐らく「太郎、次郎」の「郎」だろうと思います!
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・ | NEXT_準備中(地道に増えます。) |
78_ビアカンプ隣人愛と、カリフォルニア開拓家族 |
78_A:veerkamp家の隣人愛 |
78 | A | ■世代1_助けた世代のビアカンプはフランシス。Francis・J・A・Veerkamp
- 当時のビアカンプ家当主。若松コロニーの皆を救った隣人愛満ち溢れる人物
- シュネルの絶望と判断された段階で、甲斐性ないままに残金の返済に追われるメンバー達を放置できず、
土地を買い取り、若松コロニーの人々を救い、自家に雇ってあげた隣人農場主。
■世代2_その息子- 第1子:次世代農場主:長男のヘンリー。Henry.B.Veerkamp
- 第2子~第9子:下枠一覧ご参照
- 第10子:初代の末っ子:ヘンリーの末弟。Louis.Philip.Veerkamp。:(Louisは、Linisとも表記)
ルイフィリップビアカンプは主にルイと呼ばれています。下行のマルコムの父親。 ■世代3_さらにその子=マルコム。1989年に故人となったが、現代の人。
こちらの人物が、おけいさん」の墓を最後まで守ってくれました。また、今日、若松コロニーにかかる あらゆる手掛かりを伝えてくれました。
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78_B:おけいさんの話が現代の世、広く普及する前段階:ここでも、やっぱり「veerkamp家の隣人愛」 |
78 | B
| 若松コロニーが、 世に紹介された発端
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若松コロニーが、 世に紹介される前の話
ビアカンプ家婦人の 見せてくれた隣人愛 | ■ご参考に資料頁No.10の 項23_「若松コロニーに係る発見、保護、紹介、研究等活躍した人物」枠もご参照下さい。
順番を後に遡って書きます。(新から旧の順)- 竹田文治郎(竹田雪城)が世に紹介した。
:1915(大正4)年段階で、彼はカリフォルニア在住の記者。おけいの墓発見の上、 世に紹介した。 - 上記竹田氏がなぜ、おけいさんの墓情報を知っていたか?というと、
▼ 国司為太郎(漢字曖昧)氏から、日本女性の古い墓がある話を聞いた為。 国司氏は、この段階で既に在米しており、実業家として活躍していた。 ▼ その国司氏は、なぜ、それをふと思い出して伝えたかというと、
数年前に、ビアカンプ家の婦人が語った言葉をふと思い出したから。 ▼ - 数年前、この地で幼い我が子を死なせてしまい、嘆いていた日本人夫婦があった。
「見知らぬ土地でひとりぼっち、しかも、外国人ばっかりの墓地。かわいそう。。。」
(注)この段階の数年前ですから、上記夫婦は、明治後期の渡米と思われる日本人。 その際、ビアカンプ家の婦人が、彼らに同情して提案した。 「それならば、我が家の敷地に古い日本女性の墓がありますよ。一緒に 眠らせてあげてはどうでしょうか?そうすれば、一人ぼっちじゃなくて優しい日本人の
お姉さんと一緒だから、お嬢ちゃんも喜んでくれるかも・・・?」
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■結果からいくと、無くなった幼女は、おけいさんの墓の横に埋葬されることはなかったの ですが、ここでも、やはり、ビアカンプ家の人は、慈しみの心を発しているのが解ります。
■残念ながら、このビアカンプ家婦人が、どの代の誰の奥さんかまで解りません。 初代のルイーザさんは、おけいさんが子守役だったことを知っている人であり、また、自ら、
この娘を養女にしたいとまで言ってくれた人。ところが、ルイーザさんは、調べてみると1899年に、 亡き人。恐らく2代目の誰かでしょう。同様に調べてみると、Sophiaさんは4番目で1859年生まれ、 Josephさんは6番目で1861年生まれの為、充分、おけいさんの姿が記憶にある年齢です。
きっと、シュネルの子供達に優しく接していたおけいさんの姿が脳裏に浮かんだからでしょう。 子守役のお姉さんの横に葬ってあげれば、幼い少女も少しは報われるだろうと 考えたのでしょうね。優しさが伝わってきます。
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79_プロシア系の人々とカリフォルニア開拓(その1) |
シュネル紐解くお材料の破片 |
シュネルの出身国は今日に及んでも歴史は混迷。但し、ドイツ系、または、ドイツ語圏に該当するのは確かでしょう。
一般にオランダ人、プロシア人などではないかと言われています。 ■今日のドイツ語圏といえば、 (ドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、アルザスなど)
■シュネルはオランダ語が達者。当時西洋諸国は植民地ブーム。その中で、オランダとプロシアも、 実に絡みあっています。そんな中、当時の日本人の多くは通詞など専門家を除外すると、江戸時代の幕臣も、 明治政府の高官も、外語知識といえば、オランダ語ちょろちょろが大半。その為、オランダ語が達者な人物は、 本来の出身国とは別の国の書記官などのセクションに身を置いた者が複数居ます。
■シュネルにもスイスの縁が有り、また、ドイツ系の人々がカリフォルニア縁になった発端の都市、サクラメントは、 ドイツ(当時のプロシア)とスイスに関係多大です。
- ▼リンク先:シュネル紐解くお材料の破片になるかもしれません。
- シュネルが他人の国、日本の戊辰で敗れた人の為に命をかけたことも、
ビアカンプ家の人々が、他人の借金を肩代わりして、コロニーの人々を救済したことも、
並ならぬ隣人愛です。・・・これは、ひとつの事象に結びつきました。 プロシア系のカリフォルニア発端:サッターの軌跡とシュネルを紐解く
- 尚、上記の内容は、一般的には、シュネルは商魂逞しい商人だから利益の為、またビアカンプさんについては、
土地を買収した・・・といった形どおりの結果しか言われていません。隣人愛がどうしたこうしたというと、 なんか、特殊な宗教世界の話か?・・・と躊躇って、見落としてしまう事多いです。 なぜそうしたか?について、心を司るものが何だったかで、一般と異なる角度から掘ってみます。
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★!ビアカンプ家は、シュネル縁のドイツ系(当時のプロシア系)家族 |
Sec.1<・・・<Sec.9<Sec.10<Sec.11:各人物【資料編_No.3】(現在頁)<Sec.12・・ |
80_サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃の
プロシア人とスイス人考察 |
文章解説(c)by rankten_@piyo、 写真等、素材については頁下表示 |
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他に、若松コロニー関連シリーズのガイド |
戊辰の流れを絡めてもっと知りたい時▼ |
こちらはライト編(関連おすすすめ本もご案内)
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