壬申の乱始まる 24日の日記
クロニクル 壬申の乱始まる672(天武元)年6月24日趣向を変えて,今日のクロニクルは古代史から。 西暦645年の大化の改新を「ムシゴロシ」とゴロ合わせをして、覚えた方もいらっしゃるでしょう。この時の立役者の1人、中臣鎌足は後に藤原の姓を下賜され、藤原氏を名乗ります。平安朝中期の摂関政治の主役となる藤原氏の始祖となったのです。 もう1人の主役が中大兄皇子,後の天智天皇です。大化の改新のクーデタ後、彼は皇太子のまま実質的に政治を担当しますが、中国の新興国家、隋王朝を倒した唐と結んだ新羅に敗れ、命運の尽きかけた百済救援の軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合艦隊に惨敗を決します。 日本古代史における未曾有の危機の時代の到来でした。当時の政府当局者は、唐・新羅連合軍が勢いに乗って日本(大和朝廷)攻略軍を起こすのではないかと心配し、当時大阪難波宮の朝廷を、琵琶湖のほとりの大津宮に移したほどでした。 というわけで、壬申乱当時の朝廷は大津にありました。天智天皇は、この大津で即位したのですが、前年671年(天智10年)に亡くなり、天智の子、大友皇子が太政大臣のまま、政治を担当していたのです。 この時、後の天武天皇、大海人皇子は、闘病中の天智天皇の意中の人物が子息の大友の皇子であることを知り、剃髪して仏門に入り、吉野に脱出したのです。671年10月の出来事です。大津にいたのでは、いつ刺客を向けられるか分からない。飛鳥から大和一帯なら、自分の支持者も居て身の安全を確保しやすいと考えたのですね。天智は12月に亡くなりました。この時代、頼朝・義経兄弟をとってもそうですが、名門の家柄では兄弟といえども、乳母・傅役が違いますから、親しい肉親の情などというものは、先ず互いに持ち合わせておりません。 そこには食うか食われるかの権力闘争が存在するケースが多いのです。この場合がまさにそうでした。天智は家臣の信望を集める弟大海人の存在が、息子にとって極めて危険であることを知っていました。大海人の正妻、後の持統天皇は天智の娘で大友皇子の母違いの姉ですが、両者に姉弟の情は見られません。息子の草壁皇子を皇位につけることを考える母は、何としても夫を守り夫に皇位に就いてもらいたいと、弟の追い落としに積極的に協力していくのです。さて、吉野に隠棲しながら、大津宮の情報収集に怠りのなかった大海人らは、次第に吉野も安全と言いきれないと考え、支持者の多い、東国(東海地方)に下って兵を集め、挙兵する腹を固めます。大津の朝廷でも、大海人側の情勢を探っていますから、この脱出策を把握するのですが、事が漏れたことを察知した大海人側は、この日、決死の覚悟で、替え馬の用意もないままに、吉野の離宮を出発。敵側の伊賀越えを敢行して、伊勢に出、鈴鹿と不破の関を占領して、東海・東山地方の兵を集め、美濃に本営を設けます。こうした一連の出来事から、この日6月24日が壬申の乱の始まった日とされているのです。 大海人の挙兵を知り、大海人を慕う武人の多くは、大海人軍に馳せ参じます。最後は決断と人望が勝敗を分けたというべきでしょうか。戦いは大海人側の圧勝に終ります。 近江、大和で敗れた大友が、自害して果てたのは、7月23日のことでした。朝廷と地方の有力者を2つに割った内乱は、こうして僅か1ヶ月で、大海人(後の天武天皇)側の勝利に終ったのです。