おけと文連第40号に「ふるさと置戸町、そして袖ケ浦市 万歳 !!」が掲載された
北海道東部置戸町の隠れた名品おけと町地場産「木いちご」を使った【木いちごゼリー】3個セット 私は昭和48年3月末に23歳で置戸町を離れて、その後は今住んでいる袖ケ浦市に既に37年間住んでいる。もう故郷の置戸町での生活よりも遥かに長い歳月を袖ケ浦で過ごしているが、私の心の故郷は未だに置戸町である。昨年の平成22年2月に37年勤めた会社を還暦の60歳で退職した。その退職の日に、私は置戸町に住んでいる両親に健康で無事に過ごせた事の感謝の気持ちを伝えに帰った。農家の長男だった私を両親は自分の好きな道に送り出してくれた。その事を私は感謝しており、故郷置戸町のニュースを目にする度に産まれ故郷の良さをいつも感じている。 先日も発見「人間力」という番組で、置戸町の管理栄養士の佐々木さんの学校給食でのメニューへの拘りを見た。そこに描かれている給食のメニューは私が育った時代の家庭の味であった。特に魚の骨を食べさせると言う拘りは本当に大切であると思う。私は昨年歯の8020運動の作文に、小さな頃の歯を使って食べる食生活の大切さと両親のように80歳を超えても元気に運動しているのが大切との内容を記載し、千葉県歯科医師会の会長からお褒めの言葉を頂いた。 昨年末に上京してきた両親は千葉と東京に住んでいる3人の曾孫と逢い、その中の私の二歳の孫とも一緒になって遊んでいた。両親が冬でも毎日ゲートボールが出来るのは、「げんき」という全天候型の競技場があるお蔭である。今医療費などの健康保険料が75歳以上の後期高齢者の増大とともに増えているが、歯が丈夫で、ゲートボール等の運動を外で行っている老人が居れば、医療費の減少は勿論、介護での家族の負担も無くなり、元気に一生を過ごせる事になると思われる。 私は現在アクアラインの千葉側の袖ケ浦市で退職後の自由な日々を過ごしている。多少なりとも、世の中への恩返しと考えて、少年野球連盟理事、里山作りのボランティアに加えて、袖ケ浦市の社会教育委員、各種審議委員会の委員をやっている。父も置戸町の社会教育委員その他の公職をやっていた事をかすかに覚えている。そうした記憶が私を今の仕事に駆り立てているのかもしれない。 袖ケ浦市は人口60,000人余りで、東京からも近い事と地価も神奈川県、埼玉県等よりも比較的安い事もあり、今も人口は徐々に増えている。海岸には京葉コンビナートへの進出企業が沢山あり、その企業からの税収もあり、財政的には恵まれている。また、置戸町と同様に社会教育の町として、学校の調べ学習では毎年のように文部大臣表彰を受けている。生涯学習事業の三学大学講座では、年に6回著名人による講演会が市内各地の公民館持ち回りで開催され、多くの人が聴講できる工夫がされている。袖ケ浦市は置戸町と同様に、緑豊かな自然にも恵まれており、社会教育を通しての「人つくり」のまち作りが推進され、置戸町の老人がゲートボール、パークゴルフ等に打ち込むのと同様に袖ケ浦の老人会では市内の各地域に設立された総合型スポーツクラブでのグランドゴルフ、ウォーキング等と健康支援センターでのトレーニング等で、健康な生活を過ごす工夫をしている。こうした故郷置戸町と現在の住んでいる袖ケ浦市との共通性の高さが私の今後の生活を充実させてくれるものと信じているのが、今の偽らない心境である。 ふるさと置戸町、そして袖ケ浦市 万歳 !!ゼンリン住宅地図 B4版 訓子府町・置戸町 発行年月201012 01549410B