カテゴリ:近隣散歩
友人の偐山頭火氏撮影の写真がNHK大阪放送局主催の「あなたの“ええトコ”in大阪」アトリウム写真展に入選したということは、既に17日の日記でご紹介申し上げて居りますが、本日は銀輪散歩も兼ねて、NHK大阪まで行って、写真展を見て参りました。まあ、ちゃんと見て置かないと彼に叱られますからネ(笑)。 写真展は上のNHK大阪の建物の1階アトリウムで行われていました。囲碁の例会で梅田まで行く時は、毎度この建物の前を自転車で通っているのであるが、建物内に入るのは久し振りのことでありました。 NHKの前は難波宮跡である。既に当ブログでも何度かその写真は掲載しているかと思いますが、目の前なので、久し振りに立ち寄ってみました。 乙巳の変(大化の改新)の後、孝徳天皇は都を難波に遷す。難波長柄豊崎宮である。 <参考> 大化の改新と呼ばれる革新政治は、孝徳天皇と甥で皇太子の中大兄皇子を中心として、この難波宮で執り行われたのであろうが、白雉3年(652年)9月に宮殿が漸く完成するものの、両者の間に亀裂、軋轢が生じるようになっていたのか、都を大和・飛鳥に戻そうとする中大兄とそれを許さない孝徳とが対立し、(傀儡であることをよしとしなかった孝徳を孤立させるための中大兄の策略とするが)翌年には中大兄は大臣以下官人を引き連れて飛鳥に帰ってしまう。皇后の間人皇女(中大兄の同母妹)も一緒に飛鳥へと去ってしまう。無念の孝徳天皇が間人皇后に送った歌がこれ。 鉗着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 白雉5年(654年)10月10日に孝徳天皇は無念のうちに難波宮にて崩御する。彼の死によってその息子の有間皇子の悲劇的な運命も亦、決まったのであった。 天武天皇の時代になって、難波が再び都となる。天武12年(683年)に天武天皇は複都制の詔を発し、飛鳥と並んで難波が都となる。 聖武天皇の時代になって、神亀3年(726年)、藤原宇合が知造難波宮事に任命され、平城京の副都としての難波宮の造営が始まる。そして、天平15年(744年)には難波に遷都するのであるが、翌年1月1日には紫香楽宮に遷ってしまう。 この後期難波宮を詠った藤原宇合の歌がこれ。難波宮造営責任者として、見事に完成した難波宮を自画自賛している歌でありますかな。 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり 難波宮は海辺の近くであった。NHK大阪の先から西へと下り坂になっている。万葉の頃はすぐ近くまで海が迫っていたのであろう。 あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子らが 乗れる船見ゆ 潮干れば 葦辺に騒ぐ 白鶴の 妻呼ぶ声は 宮もとどろに <関連記事> 難波宮跡公園の一角に「歩兵第八聯隊跡」の碑がありました。 帰宅したのは5時少し前。自宅に近づく頃、生駒山は傾いた夕日に照らされて輝いている風でもありました。山の端には白い月がポッカリ浮かんでいるのでありました。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[近隣散歩] カテゴリの最新記事
|
|