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テーマ:最近観た映画。(39249)
カテゴリ:映画
ワシントンからの飛行機では全然寝られなかったので、映画を三本も見てしまった。で、今日はその中の一本、「レミーのおいしいレストラン」から。
なぜに鼠が料理の意欲があるのか、鼠は一回くらい消毒した程度で人に出す料理に触っていいのか等映画上の設定の謎はおいておくにして、アメリカンドリームちっくな作品になっている。(但し、舞台設定がパリなので、アメリカンといっていいかは微妙だが。。。) この映画のメッセージは、「誰でも成功するというわけではないが、誰が成功してもおかしくはない。なので、人間の価値を見た目で判断してはいけない。」そう、鼠だって、パリ一の名シェフになれるのだから。 そして主人公の鼠、レミーが新米コックの帽子に隠れて新作メニューを作り上げ、傾きかかったレストランに客を呼び戻す。最初は新米コックが作ったのかと誤解されていたが、実は鼠がレストラン内にいるというだけでそれまで押し寄せてきた客はあっという間にいなくなり、一挙にそのレストランは倒産。だが、一人だけその味にほれ込んだ有名グルメ評論家がいて、その人の出資で別の名前でビストロを作って、大繁盛するという筋書き。 鼠が人間という動物に対する偏見を乗り越えて(人間の新米コックもだが)、その実力を思う存分発揮する。それはそれでえらいと思うが、一方、それを偏見なく公正に評価するグルメ評論家は、もっと偉い。 自分の舌(実力)に絶対の自信とそれに見合うだけの実力がなければ、できない。が、この世に存在する、いわゆる大家とか専門家と言われている人たちって実はどれほどこうした人がいる?とつい思ってしまう。 国際関係をやっていると、特に感じるが、結構な確率で翻訳学者が多い。まあ、学者側の事情として著作をある程度作ることがノルマになっているせいで、多少修正して大量生産している向きもある。が、例えばあるアメリカ人の日本政治の専門家。話を聞きに行くと、日本の学者や新聞で言われていることを英語で説明している程度で、その人本人による付加価値はあまり見られない。なので、日本人が聞きに行くと、その専門家が正しいことを言っているかどうかのチェックをしているに過ぎず、あ、日本人の間で言われていることは理解しているのね、という程度の印象しか受けない。まあ、こうした現象は何もアメリカ人に限ったことではない、とも思う。 そう、言い換えれば、So what?の答えがない。前の会社的にいえば、他人の土俵で戦っているから勝てない。 翻訳学者ばかりではない。とりあえず無難な答えしかしない、ずぼらな尊大先生もいる。まあ、これは自分の専門領域の裾野のあたりでものすごくよく知っているという分野ではないのだが、聞かれてしまう立場によく陥らざるをえないので、致し方ない部分はある。そういうときは、大雑把にはなしてお茶を濁すしかない。が、名前が大きくなりすぎているのをいいことにしてるんだか何だかしらないが、かくかくしかじかである、でもその理由はほとんど説明しようともしない、とかいうのもよくある。そして、そういうのに限って、みんなが想像するような答え以上の域を出ない。ちなみに、こういう先生方の意見をリサーチする側にとってはえらい迷惑である。大体、中身がなさ過ぎて英語にその文章を訳せない。。。 これも、前の会社的にいえば、そんな、みんなが応えられそうな答えしかしなくって、専門家たるあんたのバリューって何?ってもんだ。 それに対し、周りの意見に抗してでも自分の実力を信じて発言する、映画のグルメ専門家、ちょっと偉いと思ってしまったのでした。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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