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カテゴリ:歴史
慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道し鎮川まで進出後に西生浦倭城に駐屯した。日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りした蔚山倭城を築城し、完成後清正を守備につける予定であったが、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食料も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。 また、清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。朝鮮では五奉行の三成や小西行長ら、文治派と呼ばれる一派と対立する。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残りそこから虎拳という遊びの元になった。しかし島津久保が命がけでとった虎二匹を自分がとったものとして秀吉に送っている(直後に久保は病死)。また、セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 そして慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に三成暗殺未遂事件を起こした。しかし、家康に慰撫されて暗殺は失敗する。 慶長5年(1600年)に三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水に同調、家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。役後の論功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる(なお行長が居城した宇土城は慶長17年(1612年)に破却された)。 慶長10年(1605年)、従五位上、侍従・肥後守に叙任される。慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力した。 慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかしその後、帰国途中の船内で発病し、6月24日(8月2日)に熊本で死去した。享年50。 墓所は熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡氏丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都大田区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。なおまた、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。 清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、寛永9年(1632年)、忠広は幕府の命により改易になった。理由は加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったためとされている。 清正の死から4年後の慶長20年(1615年)、家康によって豊臣氏は滅ばされた。
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