世尊寺跡 〈百人一首ゆかりの地〉
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな 藤原義孝百人一首50番、藤原義孝の歌。藤原義孝(954-974)は平安時代の公家で、父は45番「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」の作者、摂政・太政大臣の謙徳公こと藤原伊尹だ。父は摂政・太政大臣だが自身がそれほど出世していないのは、20歳という若さで病気により早逝しているからだろう。義孝の子どもはかなりの有名人の藤原行成(972-1028)。義孝が亡くなる2年前に誕生した長男の行成は、三蹟と称される書の達人で書道世尊寺流の祖だ。世尊寺とは藤原行成が邸宅をかまえていたところ。もともとは清和天皇の第六皇子の貞純親王(桃園親王)の邸宅があったところで、時を経てその邸宅は藤原伊尹に引き継がれ、孫の行成も住み、そこに世尊寺を建立した。義孝の父と子が住んだ場所ということで、世尊寺跡を“ゆかりの地”とした。京都市埋蔵文化財研究所の「考古資料館周辺散策」の記述によると、世尊寺跡は大宮通と五辻通の交差点の北西部分とあったので、そこへ行ってみた。大宮通を北から南へ。前方の横断歩道のあたりが五辻通との交差点なので、この写真の右側あたりが世尊寺跡になる。1軒のお宅の入口横の壁面に「世尊寺跡」の金色のプレートがあったが、個人のお宅かもしれない入口壁面にカメラは向けられず撮らなかった。門前の石碑なら撮れるんだけど。すぐ近くには京都市立西陣中央小学校がある。この辺りは西陣。歩いていると西陣らしい、染め物屋さんや「帯」と書かれた看板を見かけた。これもそういう関連だろう。古くからの地名は親王さんの名前にもなっている「桃薗」。当時は桃の花が多く咲いていたのかな。もう少し歩いてみた。今出川通まで出ると、フランス感たっぷりのブーランジュリーがある。あっ! 「キンサンです!」の子や。(関西限定のCM)わたし、あのCMはお米屋さんのCMだとずっと勘違いしてた。 笑大宮通に戻って散策を終えた。