母を見送る
8月初旬、母を見送りました。スキルス胃がんでした。昨年6月に告知を受け、その2週間後に胃全摘予定のオペをするも、開けてみたら胃の後ろ側がすでに腹膜播種(ふくまくはしゅ)で切除できず終了。何もしなければ余命半年と言われました。切除できないので、抗がん剤治療(化学療法)が始まりました。まずプラチナ製剤のオキサリプラチン(点滴)とゼローダ(経口薬)のXELOX療法から。1回めだけ入院中に点滴し、あとは通院で化学療法を行うことになりました。母にとってキツすぎたオキサリプラチンは早々と終了になり、ゼローダのみでしばらく続け、秋風が吹く頃の造影CTの結果から、セカンドラインのパクリタキセルに変更。本来ならサイラムザと併用するのですが、母の場合はパクリタキセル単体で、それも減量して2週間に1度点滴するという方法でした。ファーストとは違って副作用は弱め。水曜に点滴すると金土日に倦怠感がある程度で、残り9日間は一緒に買い物に行ったり、東京に旅行したりもできました。ただパクリの副作用には「脱毛」があり、点滴する度に問答無用で抜けていくので、母は早々とウィッグを買いに行ってました。三田寛子さんがCMしているジュリア・オージェでウィッグを買ったのですが、ショッピングを楽しむという雰囲気でウィッグを選んでいました。パクリタキセルは6か月ほど使えました。その期間の母の調子は良く、お正月明けごろは、「もう一年くらいいけるんちゃうんかな」と思っていたようです。ただ、スキルスは胃の壁内で威力を増し、十二指腸とのつなぎ目の幽門部を段々と狭めていたので、食べられる量は明らかに減ってきていました。京都で桜を楽しんだ後の4月頭の胃カメラ検査で、普通のチューブでは幽門部を通ることができないくらい狭窄していることが判明し、抗がん剤はセカンドラインからサードラインへ、幽門部狭窄の対処として、入院による放射線治療をすることになりました。サードラインは、ノーベル賞のあのオプジーボです。オプジーボ投与前に、「任意だけど、、」とドクターにMSI検査を提案されました。6月のオペ時に採取した検体でできるということなので了承しました。DNAに傷や変化が生じても細胞にはもとどおりに修復する働きが備わっていて、そのひとつにミスマッチ修復機能がある。がん細胞のなかには、この機能が失われているものがあり、その場合、がん細胞にたくさんの変化が生じる。DNAの中でその変化を起こしやすい場所がマイクロサテライトという領域で、その変化を測定する方法がMSI検査である。ミスマッチ修復機能が失われているがん細胞なら、免疫チェックポイント阻害薬のオプジーボが効く確率が上がるそうです。しかし、ミスマッチ修復機能が失われているとなると、遺伝的に大腸がんや子宮がんができやすくなるリンチ症候群という遺伝性疾患である可能性も高まることになるということ。「MSI検査で陽性となったからリンチ症候群である」ということではなく、あくまで可能性が高まるということだけですが、遺伝がからむ事実が判明してしまうこともあるということで、母はあまり気が乗らなかったみたいで、「遺伝的となったらイヤやな。あんたや○○ちゃんに悪いもの」と、私や娘に気兼ねしはじめました。「いやいやお母さん、遺伝的となったってあなただけのせいじゃないっし。お母さんの親、そのまた親、2の2乗ずつの人が関わってるんだから。幕末までで、2の3乗+2の2乗+2で14人いるんだよ。飛鳥時代までなら何人になるか、、」と計算し始めたら、「あんたってめんどくさい 笑」と笑われてしまいました。検査結果は陰性。オプジーボへの期待は小さくなったのに、母は妙に喜んでいたのが印象に残っています。2週間入院しての放射線治療は、残念ながら効果はありませんでした。放射線治療入院の退院後、ゴールデンウィーク初日に娘と私の3人で難波のスイスホテルに泊まりに行き、かき氷を食べ、ホテルのレストラン『タボラ36』で食事をしました。ちょっとしか食べられなかったけれど、シェアしたスープを小さなカップに入れてくれ、母はそのスープがたまらなく美味しかったようで、亡くなる前までそのことを懐かしんでいました。ホテル大好き、綺麗なところ大好きな母の最後のホテルでの食事が、いい想い出になるディナーになって本当に良かったです。5月頭には水も通りにくくなり脱水症状が出たので緊急入院。鼻から胃管を通し、24時間点滴になるかもしれないと言われましたが、内視鏡術で幽門部に金属製のステントを留置してもらったらうまくいき、また少しなら口から食べることができるようになりました。これは嬉しかったです。「何も通らない」のと、「少しでも通る」のとでは雲泥の差ですから。母に食べる楽しみを与えてくれたステントは、体力的にもう何も食べられなくなった亡くなる10日前まで役目を果たしてくれました。よく働いてくれたと思います。退院後は2週に1回オプジーボを投与。6月は化学療法をしながら家でのんびりし、大好きな紫陽花の手入れをしながら過ごしていました。ちょうどいい時期に家にいられたと思います。オプジーボは噂通り副作用があまりなく、機嫌よく過ごせていたのですが、今までとは違うサイクルで足に浮腫みが出て、イヤな予感がし始めたのが6月半ば過ぎでした。その予感は的中。6月末の造影CTで胸水と腹水が出現し、オプジーボを打つ気まんまんで診察室に入った母に、ドクターは抗がん剤中止を告げました。フォースラインもあるけれど、母の身体の状態ではとても無理で、そこが潮時だったのです。今考えれば、ギリギリ限界まで化学療法を頑張ったようで、中止を告げられた3日後から腹部の痛みを訴えるようになりました。とうとう一番恐れていた「痛み」が現れたのです。処方されたカロナールで収まるのですが、その間隔が日に日に狭まってくる。ドクターと相談して、緩和ケア病棟に入院して痛みのコントロールをすることにしました。入院して、とりあえず痛みの恐怖から解放されました。ほっとしたのでしょう、母は家に帰りたいとは一度も言いませんでした。介護するのは私ひとり、私への気遣いもあったのでしょう。ベッドに横になりながら、いつもスマホでYouTubeを見ていました。見るのは美味しそうな食事が出てくるものや旅行もの。「ごはん日記」「スーツ交通」「のまさんち」がお気に入りでした。あと大食いものも見ていました。少ししか食べられないのに、どうして大食いものを見るのか不思議でしたが、自分の代わりに食べてもらっている感覚だったのかもしれません。楽しそうに見ていました。入院して2,3週目は、二人で色々な話をしました。今ここで聞くか~! なんてネタありで、がっつりゴールを見据えての会話でした。個室だったので、何でも話し放題だったのは良かったです。7月半ばには、東京から帰ってきた娘が病室のミニキッチンでお好み焼きを焼き、それを嬉しそうに食べていました。それから2週間後、容体が悪くなり、最後の6日間は「鎮静」をかけ、ずっと浅い眠りに入っているような状態にしてくれました。そうすると、母は痛みと吐き気から解放されたのです。最大に辛そうな期間は2日足らずですみました。(それでも本人にとっては長く感じたでしょう)鎮静をかけて6日後、私に看取られ母は静かに旅立ちました。娘が江戸川不動尊(唐泉寺)でもらってきてくれたお札を母は大事にして、病室にも持ってきていました。お札に、「1年2か月と長めに過ごせ、苦しむ時間を少なくしてくれてありがとうございました」と頭を下げました。スキルス胃がんの恐ろしいところは、診断がついた時にはもう手遅れという事が非常に多いがんだということです。胃カメラではわかりにくく、胃の壁の中に潜んでいる厄介なヤツです。告知の頃の母は、食事はもりもりと食べ自覚症状はほとんどなし。胃カメラ検査で、少々胃の壁が厚く、幽門部が細めということで、何度も生検をしてようやく確定。そのような状態なのに、既に腹膜播種でステージ4とは、スキルス胃がんの恐ろしさが身に染みました。腹膜播種の状態でも切除する有名な先生が近くの病院にいらっしゃって、全国から患者さんが集まってきているようです。でも、母のような高齢者にはとても耐えられるようなオペではないようです。最初の抗がん剤治療だけは私が薦めましたが、それ以降は全て母の意思で治療に臨んでいました。オキサリプラチンには難儀しましたが、それ以外の抗がん剤は母に楽しい時間を与えてくれたと思えるものでした。ドクターのさじ加減が良かったのでしょう。抗がん剤への挑み方は人それぞれ。若い患者さんなら、寛解を目指して厳しい治療を行うことが多いでしょう。抱えているものが多いでしょうし。母のような高齢者だと、少しでもいい時間を過ごせたら、という挑み方になるので、減量したりしてゆったりとした投薬になったのだと思います。色々なことを話した時、「今まで行ったところでどこが一番良かった?」と質問したら、意外な答えが返ってきました。てっきりラスベガスとか香港、マカオと言うと思っていたのです。ここでした。水の都、ヴェネツィア(ダニエリ261号室から見たスキアヴォーニ河岸)この景色がお母さんの一番だったんだね。たくさんの場所に一緒に行って、いっぱいいい想い出を作ることができました。好きなピアノを一生の仕事に出来て充実した79年の人生だったと思います。55年間ありがとう。お疲れさまでした。