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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2012年02月23日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 真事に、前回紹介した、面白いサイトにハマってしまって、古代ヘブライ語から、検索し、色々考えてしまっている毎日なので、面白さ全開気分で書き込んでみる。

 言葉の杜
 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html

 このサイトは、現代でいうところの生命の樹に近いものである。

 そこで、このサイトを使って、思いついたことを自由に考えてみたい。

 生命の樹つながりで、日本の神道の注連縄(しめなわ)を思い出す。そこで、注連縄を取り上げる。

 注連縄
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E9%80%A3%E7%B8%84

 「しめなわ」の「しめ」は、古代ヘブライ語の「シンメ」からきているそうで、日本語の「天地神明に誓って」の「神明」でもある。「神明」は、天照大御神のことで、更に短縮すると「シメ」になるが、飲み会などの会合の最後は「シメ」と呼ばれる。

 会合の最後に行われる三本締めの「シメ」は、神様に拝することを意味するのだろう。神社で参拝するときと同じように手を合わせ拍手するからである。

 私見だが、拍手とは、拍子をとることで、人間ができる簡単なリズム運動である。つまり、呼吸の調整なのではないか、と思う。会合の最後に、拍手をするのは、全員の呼吸を一致させることに意味があるのではないか、と思う。

 神社にいって、手を合わせるのは、自然の神様と呼吸を合わせるという調節を意味しているように思う。なぜなら、神の存在は呼吸の機能にあり、気を取り入れることだからである。時計でいう時刻合わせ、なのだろう。

 だから、太陽を拝むことで、1日の呼吸を整えるということが原点なのだろう。

 「神明」の語源の「シンメ」は、英語では、「シンメトリー(Symme-try)」の「シンメ」になったという。日本語では、「神明鳥」となるだろうが、英語の意味は、「対称性」である。対称性といえば、鏡が思い浮かぶ。

 神明鳥からは、鳥居や、ヤタ烏が連想され、対称性からは、鏡が連想される。

 神秘学で、鏡の国といえば、黄泉の国、つまり、あの世のことで、鳥居や、三本足のヤタ烏は三位一体の象徴なので、この世とあの世を統べる神のことを意味する。ヤタは、ヤハウエ神で、聖書のエロヒムのなかでの中心神である。

 ちなみに、エロヒムは、古代ヘブライ語では、「エホヤキム」で、「ヤハウエ神が君臨(樹立)し給う」という意味になるという。また「エホヤキム」の「キム」は、君が代の「キム」で、日本語の「決める」や「君」になったという。

 「キム」といえば、朝鮮族の「金」の姓が思い浮かぶ。恐らくなんらかのつながりがあるのだろうと思って検索してみると、新羅の王族の姓で、満州族の清も、キムと発音していたという情報にぶちあたった。満州族を検索すると、金朝に辿り着いた。きりがないのでやめるが、古代イスラエル人となんらかの関係をもつのだろう。

 「エホヤキム」の「エホ」は丁寧な表現だそうで、日本語の「御」にあたるようである。大阪人が、「エライ何々ですなぁ」というときの「エライ」の語源なのではないか、と勝手に想像してしまう。おそらく、丁寧な表現が、大袈裟な表現に変化したのだろう。

 「エライ」といえば、日本語の「偉い」で、「偉い神」なら「オオギミ」で、日本語の「大君」は、古くは、「エロヒム」の意味なのではないか?とも思えてくる。ヘブライ語で、神は、「エル」だから、「エルい」が転じて「偉い」となったと思われる。 

 さて、話を注連縄に戻し、「カラス」を古代ヘブライ語で考えると、「カタス」が、黄泉の国を表すようである。カタスは、日本語では、「片付ける」という意味にもなるし、「形」ともとれる。

 だから、鳥居は、神の門で、三本足のヤタカラスは、三位一体の対称の形に片付ける神の働きで、「シンメ」は、この世とあの世を統治し、審判する基準ということになる。

 結局のところ、三種の神器の八咫の鏡が思い浮かぶ。

 八咫の鏡は、上のサイトによると、「ヤダー」=「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味を含み、鏡に込められている意味は、「この鏡を見るときは、われ(神)を見るごとくにせよ」というもので、また、「感謝・感恩」、「頌栄賛美(しょうえいさんび)」という意味を持つ語句で、ユダヤ国名の「ヤウーダ」の語源で、日本全国の地名や神社名に残る「八幡」(ヤワダ)となっているようである。

 つまり、注連縄は八咫の鏡に同じことになる。八咫の鏡には、古代ヘブライ語で、「我、ある者なり」と書かれているという。恐らくその意味は、自分のことのように、全てに親しみをもって扱い、感謝すれば、神様が現れる、ということなのだろう。

 なにしろ、全てを公正に対称的に働かせているのが神様なのだから。

 さて、「シメナワ」の「ナワ」の方だが、「ナワ」は、古代ヘブライ語でも、「縄」の意味をもち、「ナワー」というそうだ。また、「代々受け継がれる民族の営み」をも意味するようだ。

 だから、「シメナワ」は、代々受け継がれる八咫の鏡で、公正な見方で、神への崇拝ということになる。単純にいうならば、法律のことだろう。神は、宇宙を法で動かしているから、人間は、それに見習って鏡のように、人間社会を、法で動かす必要がある。

 つまり、注連縄とは、法律に思えてくる。

 では、法律を犯すとどうなるのだろうか?

 注連縄により罰せされると考えられる。罰する者は誰なのか?

 注連縄は、あの世とこの世をつなぐ縄である。先祖から受け継がれた法である。人類の祖はアダムで、古代イスラエルの祖はアブラムである。

 そこで、「アブラム」の古代ヘブライ語の意味を調べると、「アブラム」は、「ヘブライ」、「ヘブル」とも呼ばれ、原語は、「インブリ」だそうである。「インブリ」といえば、キリストが処刑されたときの十字架に刻まれた「ユダヤの王」という意味の「INRI(インリ)」を思い出させる。

 余談だが、「インリ」は、「イナリ」として、稲荷神社につながるともいわれている。私見では、かつてメソポタミアの神殿といわれたイシュタルの呼び名の「イナンナ」が転じたほうをとりたいが、どちらでも、東洋の秘儀に変わりはないだろう。

 で、「インブリ」の意味は、「彼方の」で、仏教でいう彼岸の「あの世」ということなのだろう。古代イスラエル人の祖のアブラムは、はじめは「インブリ」と呼ばれていたが、途中で、「インブリヒーム」と複数形になったそうである。

 単数形の神「エル」が、複数形の神「エロヒム(エホヤキム)」にかわるのと同じにみえる。だから、日本の現代でいえば、アブラムは、アブラム君と呼ばれるようになったわけである。複数形というよりは、代表や象徴という意味なのだろう。

 「インブリ」は、日本語の「燻る」や「いびる」に通じているようである。「追放する」という意味である。村八分というわけだ!

 アブラムは、追放の身ではないが、モーセも、イエスも、追放の身に遭い、モーセはエジプトを追放され、キリストは、この世から追放された。

 何がいいたいかといえば、追放した者が、追放された彼方の者により裁かれる公正さ、つまりカルマのことである。ちなみに「カルマ」は、日本語の「こみ」で「関係をもつ」という意味に辿り着く。また「刈る魔」や「蹴る魔」ともとれる。ちなみに、「蹴る」は、英語の「kick」にあたる。

 死後、あの世の門で、閻魔様に裁かれると誰もが聞いているだろう。この閻魔様が、実は、人類が追い出したイエス・キリストなのである。

 それを古代ヘブライ語から、解き明かしたのが、上のサイトであり、閻魔とは、日本語の「エンマン」、つまり、「円満」からきたもので、古代ヘブライ語では、「インマヌ」で、「イン・マニ」で、「間に入る」という意味になるという。

 誰の間に入るのかといえば、「エル(神)」で、「インマヌ・エル」となり、神に取り次ぐイエスということになる。

 神と円満な関係にあるイエス・キリストなのである。しかも、イエス・キリストは、人類から迫害されたので、裁くのに、充分な資格をもっているわけである。

 このことを、この世の裁判官は肝に銘じておくべきである。

 では、円満に裁くというのはどういうことなのか?

 円満は、円が満ちるということで、円というのは、高度な対称性をもっている。なにやら八咫の鏡を連想させる。

 つまり、八咫の鏡から、この世で自分が成したことが、あの世では、逆の立場の相手の立場に立って、鏡のように裁かれるというわけなのである。だから、注連縄は、相手の立場に立って思いやる気持ちを大切にしましょう、という教えの象徴にもなる。 





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Last updated  2012年02月28日 11時49分56秒
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