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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年04月26日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 以前あるサイトから、洗脳の恐ろしさを紹介するために、抜粋紹介した「インパール作戦の真相とは(1/2)」の続きは、著者の独善が入りすぎていて、残念ながらあまり参考にできないので、気になった部分だけを抜粋紹介する。残りは以下のサイトを参考してください。

 ☆  ☆  ☆

 心に青雲
 http://kokoroniseiun.seesaa.net/

 《2》
 インパール作戦そのものは、もしわが軍に制空権さえ確保できていたら、無謀な戦ではなかったと後世の戦史家(自衛隊戦史教官)は言う。

 海軍は真珠湾攻撃のあとインド洋作戦を実施していたが、それを撤収して勝手にガダルカナルやミッドウェー作戦をやらかして惨敗を喫した。もしインド洋作戦を続けて、英軍を十分叩き牽制し、ビルマ、インド方面で制空権を確保していたら、インパール作戦の失敗はなかったのではないか。

 ☆  ☆  ☆

 というような考えの戦史家に独善を感じた。歴史に「もし(If)」は厳禁で、「もし」を認めたら、そもそも歴史を学ぶこと自体が、後世へのなんの教訓にもならないからである。

 なぜ、そうなってしまったのか、が重要である。

 そもそも、「制空権さえ確保できていたら」という仮定を持ち出す愚こそ、考証家は、第一に慎まなければならない。例えば、戦場では、それは敵の罠(囮)かもしれず、相手に自分たちに都合のよい思考に陥らせる誘導でもあるからだ。現状を見誤らせる情報戦が行われるからである。

 百歩譲って、「制空権さえ確保できていたら」という仮定を持ち出すなら、当時の軍部が制空権の確保にアプローチしたのかどうか、を探らないといけない。その調査もなしに、このような発言をする歴史家は、歴史家失格である。

 この手の「もし」は、例えば、もし、ドラえもんがいたら、どこでもドアがあるのに、という類と同じ幼稚な意見といわざるを得ない。
  
 だから、なぜ、制空権もないのに、インパール作戦を実行したのか?が問題となる。

 そこで、当時の制空権がどうだったのか、をネットで検索していくと、興味深い話に遭遇したので、以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 第十二話 インパール作戦
 http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/pacific12.htm

 ・・・いよいよ、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦について書かなければなりません。

 さて、1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていました。アメリカの大艦隊は、いまやマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を目指し、日本軍はこれを待ち受けて、伸るか反るかの大決戦を行なおうとしていたのです。東条首相は、マリアナ諸島を「絶対国防圏」と名づけて、日本の国運をこの一戦に賭ける決意だったのです。

 しかし、日本軍は、全力でこの国難に当たろうという態勢にはなっていませんでした。どうしてかといえば、この期に及んで、お役所の詰まらぬセクト意識が幅を利かせていたからです。

 既述のとおり、日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国でした。彼らにとって、アメリカとの戦いは副次的なものでした。アメリカが日本本土に迫っても、それはあくまでも海軍の責任であるから、彼らには関係ないと思っていたのです。だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なったのです。

 前者は「大陸打通作戦」、後者が「インパール作戦」です。そんな余裕があるなら、どうしてアメリカとの決戦に回さないのか?

 そんなこと、お役所のキャリアに言っても無駄です。彼らは、己の省益のためなら、国益すら犠牲にする連中ですから。  

 こうして、マリアナ諸島の戦力は、相対的に低下しました。

 さて、「大陸打通作戦」とは何か?

 占領下の広東と武漢の間、すなわち湖南省を占領して、長江沿岸と広東の間に連絡路を造ろうという作戦でした。具体的には、桂林のあたりを攻撃したのです。いちおう、この辺りに設置されつつあったB29の基地は破壊できたのですが、そんなことをしても四川省に立て篭もる蒋介石には、大したダメージにはなりません。陸軍のお役人は、わざと弱い敵をやっつけて、点数稼ぎをしたかったのかもしれませんね。

 さて、「インパール作戦」とは何か?

 文字通り、インパールを占領する作戦です。インパールというのは、ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街です。ここは、イギリス軍の最前線基地になっていました。

 そもそも、どうして日本陸軍はビルマを征服したのか?

 これは、実は日中戦争を有利に進めるためだったのです。アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていました。その物資は、英領ビルマから昆明を経由して蒋介石軍に届けられていました。ゆえに、日本がビルマを占領すれば、米英は中国を支援できなくなり、中国は世界から孤立してしまうのです。そして、日本軍はこれに成功したのでした。1942年初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げ込んだのです。

 しかし、1944年に入ると、状況は大きく変化しました。その最大のものは、制空権です。連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていきました。あの加藤健夫中佐が戦死したのも、ビルマ上空です。そして、圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていたのです。そして、彼らは中国との連絡路の奪回に動き出しました。少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功したのです。

 この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなってしまいます。そこで、日本陸軍は、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させようとしたのでした。

 インパール作戦は、戦略的には道理に適った作戦だったのです。しかし、問題はその手段です。

 ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系という、標高2000メートル級の山々が聳えていたのです。もちろん、まともな道路はありませんから、自動車はもちろん、荷車だってロクに通れないのです。歩兵が、文字通り歩いて越えるしかありません。ここで当然問題になるのは「補給」です。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?

 補給畑の将校は、連日のように知恵を絞って考えました。そして得られた結論は、「不可能」でした。

 しかし、この作戦は強行されたのです。1944年3月、10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到したのです。

 どうしてこんなことになったのか。強烈な個性を持った一人の将軍が登場します。牟田口廉也です。
 
 在ビルマ日本軍の編成は、次のようでした。

 東南アジア方面を統括するのが「南方軍」。寺内寿一元帥がヘッドです。この人は、親の七光りでのし上がったキャリア君で、実務の事にまるで興味ありませんでした。シンガポールで、美食と観光三昧の生活を送っていたそうです。

 その下に、「ビルマ方面軍」があり、ヘッドは河辺正三中将でした。

 その下に、「第15軍」があり、これがインドのイギリス軍と対峙していたのです。ここのヘッドが牟田口廉也中将でした。そして、河辺と牟田口は、親友の関係だったのです。

 インパール作戦をやりたいと言ったのは、牟田口でした。彼は、「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語しました。だから、歩兵の携帯用食糧だけで十分で、補給の事を考える必要が無いというわけです。

 補給の専門家は、一人残らず反対しました。しかし、彼らの意見は黙殺されてしまったのです。日本軍は、補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人は、だいたいノンキャリアでした。キャリアがノンキャリアをバカにするのは、当然のことなのです。

 河辺は何と言ったか。「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言ったのです。明らかに、職務に情実を挟んでいたわけです。

 寺内は何といったか。「良きに計らえ」でした。

 東京の東条は何と言ったか。「やれるならやりたまえ」でした。彼は、インドの亡命政治家チャンドラ・ボースを利用して、政治的なプロパガンダを打ちたがっていました。すでに、捕虜となったインド兵を中心に、インド解放軍を編成させていた彼は、「日本軍のインド侵攻」に、甘い夢を見たい気分だったわけです。

 こうして、十分な検討もなされぬまま、作戦はノリと勢いのみで走り出したというわけです。

 もっとも、牟田口は、彼なりに画期的な補給作戦を案出して見せました。「ジンギスカン作戦」です。すなわち、ビルマの民衆から大量に牛を徴発して、これに荷物を運ばせようというのです。兵隊は、腹が減ったら牛を殺して食えば良いというのです。牟田口は、「これぞ一石二鳥」と、悦に入っていたようです。古のジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたといいます。

 牟田口は、牛という生き物を見たことが無いのでしょうか?

 牛は、背中に重い荷物を背負ったまま大河を泳いだり、険しい山道を進むことが苦手な動物なのです。仮に平野ばかりを進んだとしても、あの足の遅さでは、足手まといにしかならないでしょう。だいたい、実際の歴史上のジンギスカンは、牛ではなく羊を連れて草原地帯を進軍したのですから、状況が全然違うのです。

 案の定、「ジンギスカン作戦」は失敗に終りました。チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができずに、放棄されたのです。

 それでも、牟田口は意気軒昂としていました。彼は、幕僚にこう語ったといわれています。

 「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬのだ!」

 無知蒙昧と不見識も、ここまで来ちゃうと芸術的ですが、受験勉強で成り上がったキャリアの中には、現代でもこういうのがウジャウジャいます。実に恐ろしい事です。

 ☆  ☆  ☆

 というように、牟田口という全く教養のない売国奴が、個人的利益のために暴走したことがわかる。周囲は、その暴走を抑止するどころか上官は無責任にも見て見ぬ振りをしているわけで、現代の仲間意識の馴れ合いと似たものを感じる。

 古くは、原住民系と、大陸からの侵略軍の末裔系が、賊軍と官軍、そしてノンキャリと、キャリアの構造に置き換わっていたことがわかる。

 つまり、日本は一枚岩ではなく、軍部の差別階級と、庶民の被差別階級で闘争を続け、対外的にも持ち込んでいたことがわかる。

 牟田口というような人の命令で、何万人と戦地で命を落としてしまったのだから、大量殺人といわざるをえないわけで、このような人物を指揮官にした人事にも問題がある。それを後世の自衛隊の官僚が弁護するとは、歴史解釈のいい加減さを改めて感じさせる。





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Last updated  2013年04月26日 14時26分05秒
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