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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年09月06日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 前回の続き

 ☆  ☆  ☆

 ほとんどの人々が輪廻のサイクルを通じて、異なった職業や趣味などを採択しますが、なかには、そうしたものの連続性が極めて顕著な場合もあります。時にそうした連続性が絶たれたかに見えることがあっても、実際は常に存在しているのです。

 そうした人々はほとんどの転生において、例えば聖職者であるとか教師であることを選ぶのです。輪廻転生については、本書の別のところで更にまた論じていくつもりです。

 ここでは、転生と転生の狭間にある「選択」の場での、次の転生への計画といった取り組みやすい問題だけでなく、他にも多くの問題が関わっている、ということを指摘するにとどめたいと思います。

 通例に反して、例外的に輪廻の途中で、安息日にあずかる場合もあります。本道から逸れてのおまけの旅が許される、とでも申しましょうか、別次元の現実を旅してまわった後で、再び輪廻のサイクルに戻ってくる、というものです。

 しかし、これはそれほど頻繁にはありません。こうしたことも「選択」の場で決められます。輪廻のサイクルを完了し、この体系を出ることを選択した人は、輪廻のサイクルに残る人以上に沢山の決断を求められることになります。

 可能(確率)性の領域に入ることは、輪廻のサイクルに入ることと並び称される選択です。その全く異なる世界の現実においても、集中度の高い意識や存在が維持されます。可能(確率)性の領域に入ることを選んだ場合、多元的人格を保有しながら、それまでほとんど気づくことのなかった潜在能力の開花が求められ、実際に行使されることになります。

 可能(確率)性の領域での精神の体験は、既知の如何なる体験とも相当かけ離れたものですが、それでも、その手掛かりは、既に貴方がたの精神のなかにあるのです。そこでも人は、これまでと全く異なる方法で、しかも貴方がたが知る「時間」に少しも頼らずに、出来事を判別することを学ばねばなりません。

 他の現実と違い、そこでは、知性と直観が手を取り合って機能していくのですが、あまりの自然さゆえに、双方の識別が難しいほどです。輪廻の体験を選択する自己と、可能(確率)性の体験を選ぶ自己は、同一の自己なのですが、可能性の体系内での人格は、著しく異なったものになります。

 貴方がよくご存知の人格は、貴方にも通じている多様性に富む「多元的人格」の1つにすぎないのです。

 従って、可能性の体系も、輪廻の体系と同様に極めて複雑です。さて、全ての行動が同時に起こる、ということを既にお話しましたが、よって、貴方がたは両方の体系に同時に存在している、とも言えるのです。

 しかし私の説明に「どちらか」を選ぶという言いまわしが含まれることや、それらの体験を「別々に」話していることなどの、ある程度の便宜上の簡略化は免れません。

 多元的人格全体のうちの、ある部分は意識の焦点を輪廻のサイクルに合わせ、そこでの進化に取り組んでおり、更に別の部分は、可能性の体系に、意識の焦点を合わせ、そこでの進化に取り組んでいるとお考えくださればよいと思います。

 『勿論、意識の焦点が、輪廻のサイクルに存在せずに、可能性の体系だけにあり、また、可能性の体系に存在せずに、輪廻のサイクルだけにあることもあります。』

 いずれにしろ、人格が寛大で開放的で柔軟性に富んでいることが、極めて重要になります。

 存在したい全ての世界には、扉を開く準備が整っており、また、人は、その事実の認識を拒むこともできます。また、可能(確率)性の体系での存在へと至る扉は、全てに開放されており、そうした意味では、意識は、これまで存在してこなかった世界に、扉をつけ、開くことができるのです。

 こうした選択と決断の段階には、案内役や教師たちが選択肢を提示してくれたり、存在の本質について説明してくれます。全ての人が、同じ進化段階にあるわけではありません。従って、教師のなかにも進化したものと、前者に進化がまだ及ばないものもいます。

 しかし、この「選択」の段階は、混乱を体験する場ではなく、大いなる啓蒙と信じ難いほどの変化を体験する場に他ならないのです。後ほど、本書でも神の概念について、お話するつもりですので、この章では言及されない、追って述べる幾つかの事柄が、貴方がたの理解を深めることになれば幸いです。

 さて、直前の過去世での出来事を、新しい方法で―例えば組み替えたり、「組み合わせたり継ぎ合わせたり」というようにして―再度やり直すことを選択した人も、同様に教えを受ける必要があります。こうした人の多くが、先にも述べた完全主義的な性格に起因する柔軟性の欠如などといった深刻な問題を孕んでいます。

 そのようにして地上での年月が再体験されるわけですが、それは必ずしも以前と同じ連続(時系列)の体験である必要はありません。その転生での出来事は、当人の希望通りに実施されます。変更を加えたり、変更後の体験と比較対照させるために、元の体験をもう一度そのまま再生したりもできます。

 それは、まるで俳優が演技を学ぼうとして、過去に出演した映画を再度再生して観るようなものでしょう。しかし、勿論、人生の再生の場合は、その主人公が特定の出来事への関わり方を変えたり、結果を変えたりできるわけです。主人公には、その転生の年月に関して、自由裁量が最大限許されるのです。

 しかし、そこに登場する自分以外の俳優(女優)については、同時代の幾人かが同時に、その出来事に参加している場合を除けば、全て自らの想念です。

 さて……こうした状況下では、言うまでもなく意識的に出来事を操作したり、様々な影響や効果について学びます。その際には極めて集中度の高い意識が求められます。

 そこでは更に、当人と一緒に体験に参加している人々の本質についても教えられます。例えば、そうした人々が、一種の想念であることや、それらの想念が、当人によるものであることも認識することになります。

 しかし、ここで念を押しておきたいのは、想念にも実体と同じ意識があり、ただ意のままに動かせるヒトの形の厚紙でできた駒のようなものではない、ということです。ですから当人には、そうした存在についても十分に理解する必要が生じ、彼らに対して避けることのできない責任も課せられます。

 想念である彼らも意識として成長し、異なった次元で、独自の進化の道を歩み続けています。ある意味、私たちも皆、想念であり、このことは、神の概念を説明する際に、できるだけ詳しく述べるつもりです。

 しかし、だからと言って私たちが自身の行為や個性や目的の設定に関して、自らの責任として、決定権を欠いているわけではありません。どうか、そこのところをよく理解していただきたいと思います。

 また貴方がたは、この追体験では、内面を、外の環境に反転した状態で生きることも忘れないでいただきたいのです。そうした事柄を踏まえれば、私の説明が、貴方にとってより重要な意味をもってくるでしょう。

 いまこの「選択」の場において、こうした全ての事柄が考慮され、適切な準備がなされます。しかし、計画の立案そのものも体験の一部であり進化の一部なのです。従って、「選択」の場での存在にしても、選択後の別世界での存在と同様、あらゆる点において重要なのです。

 換言すれば、貴方がたは自己を如何に演ずるかを学ばれるのです。また、この休息期間(「選択」の場)には友人や顔見知りもつくります。こうした知人たちとは、恐らく「選択」の場においてのみ幾度となく顔を合わせることになるでしょう。

 彼らとは久しぶりに出逢った旧友のように、輪廻のサイクルでの体験について話を交わすかもしれません。例えば輪廻のサイクルのなかに存在する教師たちも、そうした存在に含まれます。

 ただ、より進化した教師たちに関しては、既に輪廻の体系と可能(確率)性の体系の両方に対峙したことがあり、彼らは「将来」如何なる性質の体験をするか、全て自らで決断を下しています。しかしながら、そうした存在たちの選択肢は、貴方がたの選択肢とは異なります。彼らに対して開いている別の領域(世界)については、後の章で言及していきましょう。

 セッション546……1970年8月19日(水曜日)午後9時20分

 「選択」は、肉体の転生から移行を遂げた個人の状態や付帯状況によって左右されます。自分の置かれた本来の状況が理解できるまでに、他より時間(便宜上)を要する人もいます。

 本来の状況の把握ができた人は、先にも説明させていただいたように、多くの差し迫った概念や象徴を打ち捨てねばなりません。「選択」は貴方がたの見地からして、ほとんど即座に起こることもありますし、訓練が行われている間は、かなり長期にわたって延期される場合もあります。

 「選択」を迎えるのに主だった障害として立ちはだかるのが、どの個人にも宿っている誤った概念であることは言うまでもありません。

 ある特定の状況下において、天国と地獄への信仰は、誤った概念と同じくらい危険に作用することがあります。従来の天国という環境が死後の唯一の可能性として疑わない人のなかには、更なる務めを果たしたり、更なる進歩を目指したり、探求課題を設定するなどといったことがなかなか受け入れられない場合があるのです。

 (天国を終着点だと錯覚する。)

 そうした人はしばらくの間、本当にそうした環境で生活し、そこでの体験を通して、存在は進化を望むことや、そうした天国は不毛で退屈で、まるで「生気のない」場所であることを自ら学びとるまで、そこにとどまる可能性があります。

 彼らは、そこを出てはじめて「選択」を迎える準備ができたことになります。また、みずから犯してきた罪のため、自分は地獄に落ちると言い張る人もあります。そうした強い思い込みのため、そのような人はしばらくの間、実際にその通りの環境に遭遇する可能性があります。

 しかし天国にせよ地獄にせよ、いずれの場合も常に教師との接触が可能です。教師たちは、それらが誤った概念であることを理解できるよう全力を尽くしてくれます。

 どちらかというと地獄の環境に置かれた人のほうが、健全な判断力を取り戻すのが早いようです。彼らの恐怖心が、その環境からの脱出を誘発するからです。すなわち彼らの必要が、「内なる叡知」への扉を早く開くことになるのです。従って、そうした地獄の環境は、天国のに比べて長く続くことは滅多にありません。

 (親鸞の悪人正機説に通じる。)

 しかし、どちらの環境(天国と地獄)であっても、「選択」と次の転生を遅らせることには変わりありません。ここで、1つの注意点について述べておきたいと思います。全てにおいて、自分の体験は、自分で創造します

 繰り返しになるのを覚悟で、あえて私は再度言明しましょう。なぜなら、このことは全ての意識と全ての存在にとって、根本的な事実であるからです。肉体的な死を迎えた人に、ある種の体験を強いる目的で、特別に設えられた「場所」や環境というものは存在しません。

 (天国も地獄もない。)

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年09月09日 09時36分48秒
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