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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2023年12月30日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
クリスマスはとっくに過ぎてしまったが、人智学的キリスト学を読み解くのに時間がかかり、年末の縦込んだ忙しさに遅れてしまった。ともかくも、シュタイナーのキリスト論の後半を紹介したいが、その前に、この国の進化からの逸脱を戒めておきたい。

日本語が、もはや議会制民主主義の最高機関の国会では、意味不明な言葉になってしまったのは、司馬史観によれば、明治政府以来の、官僚言葉が蔓延ってしまったせいともいえるかもしれない。司馬史観によれば、大久保利通の言葉から曖昧な政治用語が生まれたという説がある。

司馬遼太郎 - Wikipedia

霞が関文学って何??NHK NEWS WEB


前回紹介したように、日本史も、薩長明治政府の都合で、酷く改変されたが、日本語も、身分差別がないように改変されるべきだったが、「遺憾」などという、中途半端な、言葉を発する立場を曖昧にする日本語の無意味な表現が目立つのは、人間が嘘を平気でつけるような意識が生まれたせいにもみえる。

393 「遺憾(いかん)」は政治用語ではない - 日本語、どうでしょう? (japanknowledge.com)

上述のサイトによると、「遺憾」という言葉は、室町時代にはじまり、「残念」という意味に、後年になって、抗議に使われるようになって、「残念」という意味で、抗議する際に使われるようになっているらしい。そもそも、このような古い言葉を、意味もわからずに使い、国民に真意を伝えない、曖昧な態度が、精神的に進化していない証拠でもある。

代議士は、国民の代わりに議会に参加しているわけで、国民に正しく伝わるような言葉遣いを心掛けてほしい、皇室のような伝統を重んじる組織ならまだしも、どうせわからないだろう、というように、国民を舐めた言葉遣いをするのは非常に問題である。国民にも誰が何のために、誰に述べたのかをはっきりさせるような言葉遣いをすべきである。

言葉遣いも曖昧だが、明治政府の四民平等の不徹底さも、その曖昧さからわかる。以下のサイトをみれば、言葉遣いからくる、差別用語がいまだに残るのがわかるような気がする。

日本ペンクラブ電子文藝館 (bungeikan.jp)


            ☆        ☆        ☆

 「四民平等」の実態

 このような部落内外の動きを背景にして、賤民制の廃止が発令されたのだが、それは、もっぱら外国への体裁をつくろうのと、全国土全人民を政府が画一的に支配するためであった。政府はえた・ひにん廃止を令すると同時に、府県に、地租そのほか、従来かれらからは取り立てなかった公的負担を、今後は平民なみにとるよう調査のうえ大蔵省へ伺い出るべきことを通達したが、勧業資金を与えてその生活を人なみに向上させることなどは、考えてもみなかった。解放令当時のえた・ひにんおよび官庁用語で「雑種賤民」とされた人々の総数は五十万人以上、全国総人口の一・七パーセントを上まわるものと推定される。

 こうして複雑な封建身分制は、超人間的身分である天皇と皇族および華族・士族・平民の三級に整理された。華族は依然として貴族身分であり、旧領主としての莫大な財産をひきつづき保証された。士族もなお社会的に高い地位をしめ、しばらくは封建家禄を与えられていた。明治六年七月施行の新刑法「改定律例」でも、華士族にたいする刑罰は平民にたいするのとは違って、軽い罪は金をだしてあがなうことをみとめ、平民なら懲役刑にあたる罪を禁錮刑にした。

 この刑法ではまた、官吏を華士族と同じにあつかい、平民の官吏となったものと、その父母兄弟子孫の犯罪は、すべて士族に準じて取り扱った。官吏は新しい特権身分になったのである。

 つまり「四民平等」は名のみで、華士族と官吏は新しい特権身分となり、人はすべて平等であるとの理念さえうちたてられなかった。ことにもとの賤民にいたっては、その名称が廃止されたことによって、従来は課せられなかった納税・兵役その他の義務を平民なみに課せられただけで、実生活上では依然として被差別身分としてのこされた。職業の自由や居住の自由は、部落民の大多数にとっては、農業・商工業に進出し、あるいは近代的労働者となる自由でもなく、ただその身分と結合していた特定の手工業のうち皮革業のような発展性のある分野の独占は、部落以外の資本にやぶられていく「自由」にほかならなかった。

 しかし法制上の解放は、部落の人々の社会一般との交渉の道をすこしずつひろげ、それとともに差別される屈辱と苦しみの自覚をいっそう痛切ならしめ、その実質的解放をかちとるたたかいを発展させる一条件となった。

                ☆        ☆        ☆

日本には差別がないなどと平然という人に限って、日本史を年号と出来事の暗記だけで、真剣に学んでこなかった経験を物語るものだが、いまだに、男女間の差別だけを差別と考えているのも、コンプラの世の中にアップデートできていない老害たちなのだろう。

例えば、八切氏によれば、「庶民」という言葉も本来は差別用語で、嫡子ではない、庶子に由来し、その由来がわからずに現代でも使ってしまうことがよくある。悪意がなければそれ程こだわる必要もないが、議員が、庶民などと使うのは、国民を差別していることになるので、些か問題発言とされることもあるだろう。

新言語が新しくできているのに、いまだに古めかしい言葉で問題に対応しようとするのは、果たして、現代に生きているといえるのだろうか?

例えば、Cプラプラの理工系コンピューターの言語システムの世界に、事務処理言語のCOBOLやアップデートされていない基礎言語のBASICを持ち込むようなものである。

BASIC - Wikipedia

COBOL - Wikipedia


なにより恥ずかしいのは、この国の国会議員は、母国語も満足に話せないだけでなく、いまや国際舞台では当たり前の、英語すらも満足に話せない程度なのは呆れるしかない。裏金つくりのズルばかりは巧みなのに、肝心の表舞台での表現能力は小学生レベルの作文能力しかないのである。こんな能力で、心を割って話せるのか、心に響く表現ができるのか、全く期待できない、無能レベルなんである。それもこれも、官僚の作文を読むだけなんで、AIのほうがまだ遥かにマシかもしれない。

要するに、この国の政治家のレベルは、中世とほぼ同じで、物質科学が進んだ恩恵に預かって、物質的略奪経済が発展してきただけで、中身の精神は、逆にどんどん退化しているだけなんである。国民を騙して、利益を上げる事しか頭にない詐欺政治なんである。

政治家が、日々変わる母国語も不勉強で、言葉遣いが曖昧でいい加減で、読み仮名までふった官僚の作文に依存し、母国語を話せないままで、古いままの特権階級に胡坐をかいていると、この国の財政赤字が増加し、いずれ破綻し、滅亡するのは、火を見るよりも明らかである。特権階級に胡坐をかけるのも時間の問題である。

なによりも、国会議員から、隗よりはじめよで襟を正し、差別をなくさないと、論争、闘争、戦争がこの地球からなくならないのは、自明の理なんである。

それにはまず、日本語という母国語を現代に合わせた明確な心を表明する言葉にしていく必要がある。沈黙は金なりというのは、古の諺で、行動がモノを言うのは、いつの時代でも、成り立つ金言である。行動には動機が必要だが、動機こそが、言葉となる必要がある。

つまり、有言実行となる言葉を、日本語という母国語に求めないと、いつまでたっても、有言不実行のような、現在の体たらくの国会のような無用の長物となる。

公人はよく古から武士に譬えられるが、「武士に二言はなし」とは、武士には実行しかない、と言う意味である。つまり、同じことを二度とはしないという意味で、次に同じような動機をもったら、より進歩した行動をするので、日々向上を心掛ける武士には、同じ動機でも、進歩した新しい行動に変わっているので、同じことをしないので、同じ過ちをしないし、嘘もつかないので、常に新しい行動を心掛け、精神的に精進できるわけなんである。

行動に対して常に反省し、精神精進を怠らないから、武士なのである。武は戈を止めるという漢字からなり、その意は、戈の攻撃力=物欲を放棄し、止めるにあり、士は、天に仕える意である。王が、天と地を結ぶ存在で、天の意を地に伝える存在を意味し、士は、上の横線の一が取れて、天に仕えるになったものと思われる。士とは逆の形の、干は、干支の干で、恐らく、天意に曝すという意味からくるのだろう。

だから、武士とは、攻撃力を止めるために、天意に仕える存在といえるわけである。八切史観では、武士は、ブジンの不信からきていて、物書きができる唐からきた貴族には、信用できない存在なので、武人(ブジン)と呼ばれた陰口から生まれたようである。

由来が、悪しき意味でも、時代が変われば、新しく、良い意味に変わるのもので、以前紹介したように、「ヤバい」が江戸時代の牢屋の意味があり、江戸時代以前の古くは、被差別民族の八の場所から、八場(ヤバ)と呼ばれたのが、時代が移りかわり、令和では、ヤバいというのは、比類のない、無双の意味で使われているわけである。

古い言葉が良い意味にかわったり、現代に蘇るのは、その使い方のいわば実例集からくるわけで、有言不実行では、言葉を発するだけで、嘘をつくだけの、無意味に終わってしまうわけなんである。

マジ、ビビる、ムカつくは最近の若者言葉と思いきや、じつは古くから使われてきた言葉だった!?(季節・暮らしの話題 20160303) - 日本気象協会 tenki.jp


遺憾というだけで、その言葉の動機となる、感情の源の、身体を動かす肝心要の、心臓を動かそうとする、自分の自我から精神表明がなされていないから、そのような形だけの上っ面の表現だけを口から発していると、心臓が、血液の血流と融合しなくなり、血流が不安定になり、澱んで血栓などができてしまい、動脈硬化をいずれ呈するようになるだろう。

感情の籠らない形だけの言葉を発していると、なんらかの病気、心筋梗塞や、腫瘍などをどこかの臓器に呈するか、関節が硬くなっていくだろう。有言不実行の恐ろしさを、体験しないと、精神が向上しないためで、それは人間として生きるための大切な徳目なんである。

だから、十戒にも、人を欺くな、嘘をついてはならないと、あるわけである。

裏金つくりの職業と化した政治家を続けていても地獄に堕ちるだけである。地獄に堕ちる前に、人生をやり直すに越したことはない。

生命を辞職よりも大切にすべきである。政治家になれなくても、他の職業に就けばよいわけで、生命を失うわけではない。日本人は、どうも精神的に進化していないのか、生命よりも、仕事の方が大切に思うような古い価値観に囚われているようにみえる。悪行をする仕事ならしないほうがマシで、ブラック企業に投資するのは、悪行に加担し、地獄に堕ちるのと同じ罪を背負うだけなんである。武士の本当の生き方を知らなすぎて、嘘で美化された軍国化された奴隷日本史に洗脳されてしまっているようである。

自分が悪行に加担しているのかどうかの判断こそが、今生きる意味の学びなんである。特権階級に胡坐をかくよりも、ホームレスで生きるほうが自給自足の正しい道に近いから、金持ちは天国に行くのは困難なんである。悪に手を染めて生きるよりも、貧しく生きるほうが天国に近いのである。

永遠の生命は、現在の正しい生き方の延長上にあるのだから、そのことを示す、人智学のキリスト学の後半を長くなったが紹介する。

             ★        ★       ★

 第二位階=ヒエラルキアに属する運動霊、つまり、デュナミスには、悪となる可能性は全くなかった。反逆という命令を考えればわかる。第三位階=ヒエラルキアに属する天使、つまり、人間に近い、すぐ上の天使だけが、反逆命を受けた妨害的な運動霊に、従うか、従わないか、を選べた。

 反逆を選択しなかった天使たちは、天空の戦いでの勝利を描いた絵画などに表現されている。このような絵画は、人間のアストラル体への受肉、つまり動物人間に進化していた、月の進化段階に起きた出来事を表現している。反逆に組みしなかった天使たちは、地上の月進化過程から離脱し、下方の月上で起こった出来事から免れた。

 このような悪の構図は多様な形で、人間の魂の前に現れる。それはまず、ミカエルと龍の戦い、として表現され、ミトラ教の牡牛の絵画にも表現されている。しかし、その牡牛の絵画は、これらの天使たちが、自らの役割を放棄した、のを表現したのではない。

 その意図とは、理想の未来を描くためである。その絵画で説かれている意味は、次のようなことである。

 「ほとんどの天使たちは、好んで精神界に上昇したが、人間は、『反逆の天使たち』に従った堕天使たちと共に降下した。だから今、人間が、自ら選んだ反逆心を捨て、精神界へと再び上昇するかどうかは、人間自身の努力にかかっている。上方へと向かう進化の途上で、ミカエルのように、雄牛の征服者になるように求められる。」

 この天空の戦いに由来する、悪の象徴は、上記のような、二重の意味で理解されるべきである。

 だから、上述からわかるように、人類が自身の力で、その目的を達成する可能性(セラフィームでさえ、自らの努力では到達できない目的だが)が与えられたのは、運動霊たちが反抗命令を受け取ったからに他ならない。この事実が最も重要である。

 セラフィーム、ケルビーム、トローネたちは、神が与えた直接的な意志に従うしかない。主天使たちや、第二ヒエラルキア位階の天使たちも同様である。ただ運動霊の位階に属する一部が反抗命令を受けただけである。

 反逆命を受けた運動霊たちが、進化の道筋を横切るように身を投げ出したのも、神の命令に従っただけである。「悪の源泉」とでも呼べるような堕天使が生じたときでさえ、ただ神の意志を遂行したにすぎない。自らを悪の僕とすることで、これらの運動霊たちは、悪という回り道によって、善を強化しようとした神の意志を達成した。

 さて、能天使、あるいは形態霊と呼ばれる存在たちにまで下ってみる。同様に能天使も邪悪になれなかったが、人格霊(アルカイ、権天使)や火の霊(アルヒアンゲロイ、大天使)も同様である。というのも、後者が、太陽の上で人間の進化段階を通過したときには、運動霊たちはまだ反抗命令を受けず、まだ、悪になる可能性もなかったからである。

 この、悪になる可能性を、最初に獲得したのは天使(アンゲロイ)だが、それは、この悪の可能性が存在するようになったのは、月の進化段階以降である。「天空の戦い」は太陽紀から月紀への移行期に起こった。

 多くの天使たちが、この障害の導入に唆される可能性を拒否した。多くの天使たちは、以前の本性について真実であり続けた。このように、最下位の天使に至るまで、そして天使の一部もまたそうだが、高次のヒエラルキア存在たちには、神の意志に従う、純粋な誠実さ以外にはない。これが最重要である。

 だから、二種類の存在たちがいる。第一に、反逆命を受けた運動霊たちに従い、「天空の戦い」のなかに自らを投げ入れた天使たちがいる。これらの堕天使たちは、後の行いによって、ルシファーと呼ばれた。堕天使たちは、地球進化の間に、人間のアストラル体に働きかけるようになり、人間に、悪の可能性を導入したが、また同時に、自身の自由な活動を通して、自らで進化する可能性も導入した。

 だから、ヒエラルキアの位階全体を通して、自由の可能性が見つけられるのは、天使の一部と人間だけである。自由の可能性は、最下位の位階の天使から始まるが、それを善きものとして十分に進化させられるのは、ただ人類だけである。人類が地球へと降ってきたとき、最初は、ルシファーの大群による圧倒的な力の餌食にならざるを得なかった。

 これらの大群が力によって、人間のアストラル体に浸透した結果、人間の自我は、その力の領域の中に絡め取られた。レムリア期とアトランティス期、そして、その後の時代においても、自我が、ルシファー的な影響によって生じた雲の中に包み込まれている、のがわかる。

 このような、人間を弱体化させる力によって圧倒されることから、人間が守られたのは、天上の戦い、以前の存在たち(反逆せずにとどまった天使や大天使)が人間に影響を及ぼし、人類を指導するために、選抜された人物たちに受肉したからに他ならない。この受肉は、ある重要な出来事(キリストのゴルゴダの事件)が起こる時まで続いた。

 天上での戦い以後、太陽と結びついていた、ある存在が、高次の存在たちと同じように、人間の肉体、エーテル体、そしてアストラル体だけでなく、自我に浸透できるまでに進歩した。 天上の戦い以後、一部の天使たちが下降し、人間の肉体、エーテル体、アストラル体に、魂を吹き込んでいた。

 さて、進化の流れのなかで、特別重要なターニングポイントに、最も気高い存在(太陽と結びついていたが、いまや、地上の自我に、つまり、人間の自我の力の中にまで、インスピレーション=霊聴力で働きかける存在)を、自らの中に受け入れる準備ができた、地上の個人が立ち現れた。

 自我は人間の血を通して、自らを表現する。血液の物質面が自我を表現するように、血液の温かさ、もしくは、その火は、古き土星の火の名残りだが、自我の表現である。

 この自我存在は、天と地との、二重の形で、自らを物質的に表現しなければならなかった。火という元素霊の中で、自我は、燃える林とシナイ山上の稲妻において、自らの自我存在を、モーゼに告げ知らせた。

 その自我存在は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに語りかけた。この存在は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。

 この太陽存在は、地上の個人の中に入り込んだ。人間の自我は、そのときから、自我に浸透した救済力によって、次第に満ち、溢れるようになるだろう。

 太陽存在により人間の自我が満たされることで、人間の自我は、自身の救済力を通じて、自我を地へと引きずり下ろす力を持った、あらゆる悪の影響を、次第に克服できるようになるだろう。

 というのも、人間の自我に浸透した、この太陽の救済存在は、天上の戦い以後、地上に下降し、肉体、エーテル体、そしてアストラル体に、魂を吹き込んだ、堕天使たち(ルシファー存在)とは、その本性において真逆だからである。

 いま古代の聖なる導師(リシ)たちを考えてみる。既に以前述べたように、高次の精神は、導師たちのエーテル体に宿っていたが、それは、崇高な存在が、偉大な古代アトランティスの祖先たちのエーテルに宿り、それを聖なる導師(リシ)たちが引き継いでいたからである。

 高次の精神は、導師(リシ)たちに伝えられたが、導師(リシ)たちのエーテル体のインスピレーション(霊聴力)を通じて流れてくる太陽存在を、当時の、人間の自我とアストラル体では、理解できなかった。つまり、古代アトランティス時代から、ポストアトランティス時代へと続く流れとは、理解できない霊聴力の一種を引き継ぐ事だった。

 人間はインスピレーション(霊聴力)を受け取ってきたが、それを受け取るときには、人間には何か力のような存在を経験した。インスピレーション(霊聴力)とは、いわば力で捉えられるものだった。そのような場合、自分で、何とかするという、努力という、通常の人間がもつ力では、及ばない、到達できないものだった。

 その人間が進化し、改善するには、完全な存在からのインスピレーション(霊聴力)を受ける必要があった。宗教の創始者たちは、このような状況にあった。天上の戦いに巻き込まれずに、超越していた存在たちが、宗教的創始者たちの魂を強化していたが、そのことで、人間たちが自身の能力にのみ頼るようにはなっていなかった。

 けれども、ようやく、キリストにおいて、非常に異なった本性の存在が現れた。キリスト存在は、絶対的に何の強制を行わない、つまり、人々を、キリストに従わせるために、強制力を全く行使しない存在だった。この事は最重要な原則である!

 もし、キリスト教の伝播を探求すれば、キリストが、キリスト教の布教については、その生涯において、強制的には何も為さなかった、という証拠を見つけるだろう。

 古代の宗教創始者たちを探求すれば、偉大な人類の教師たちなのがわかるが、宗教創始者たちは、人類の進化の、高次のヒエラルキアから霊聴力を与えられた、人類進化のターニングポイントとなる、特別な時期から教えを伝え始め、そして、その教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけている。

 しかし、改めて、キリストについて考えてみると、キリストは、その教えを布教したといえるだろうか?

 キリストの主要な貢献が、教えにある、と考える人は、キリストを真に理解できない。少なくとも第一義的に、キリストは、教えではなく、行いを通して人類に働きかけた。そして、キリストの最も偉大な行いとは、死により終わった十字架刑にある。その行いとは、最もリアルな死だった。これが最重要な出来事である!

 キリストは、十字架刑を通じて、人類に働きかけた。そして、この行為についての知識が、世間に広まり始めたとき、キリストはもはや、物質界には存在していなかった。この違いが、キリストの影響と、他の偉大な宗教創始者たちの影響との根本的な違いである。この違いを理解するのは困難だが、最重要な違いである。

 キリストの教え、キリスト教による教え、キリスト教布教による教えは記述でき、他の宗教体系のなかにも見つけられる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、それ以外の宗教体系の中にも含まれている、と言える。

 しかし、キリスト教のこのような影響は、その教えの内容を通してなのか? 

 キリスト教を広めるために多大な貢献をした人物は、その教えに頼ったのか? 

 そこで、使徒パウロについて考えてみる! サウロからパウロとなったのは、聖書の中に書かれている教えが働いたのか? 

 十字架刑で死を遂げた人物が、雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロは、キリストが「生きている」という、個人的な神秘体験を持つまで、キリスト=イエスに従う者たちを迫害していたのである。

 キリストの十字架刑による死と、その神秘体験による影響が、パウロにとっての布教活動の切欠となったのが重要である。他の宗教体系は、教義を通じて働き、その教えは、キリスト教の中にも見つけられる。しかし、キリスト教においては、教えはさほど重要ではない。問題は、キリストの「行い」にある。

 キリストの行為が、ある人に働きかけるには、その人が、キリストの行為を、行おうと決めたとき、つまり、個人の自我がもつ、絶対的に自由な本性と、キリストが示した行為とを、1つに結びつけるときだけである。人間のアストラル体のなかに、キリストが宿るだけでは不十分なのである。

 キリストを、真に理解するには、自我のなかに招き入れなければならない。自我は、キリストの受け入れを、自由に決断しなければならない。これが重要な点である。自我を、キリストに結びつけた結果、人間の自我は、現実を、つまり、単なる教えではなく、神聖な実行力を獲得する。

 だから、キリスト教の教えは、既に至る場所で見つけられるが、その教え自体は、それほど重要でないのを、何万回でも示せる。キリスト教の本質は、高次の精神界への自主的な上昇を通じてのみ、自らの自我を通じてできる行為にある。

 人間が、キリストの力を、自分に受け入れるのは、その行為を喜んで受け取るからで、その行為を自主的に受け取らない人は、永遠に与えられることはない。人間にとって、キリストの受け入れが可能になったのは、キリストが地上で人間となってから、つまり、キリストが、地上で人間になるように召還されたからである。

 ルシファー的な存在となり、地上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違う。実際、堕天使たちは「月」の上で、人間になるべきだった。しかし、堕天使たちは、キリストを拒否し、受け取らずに、その進化の途上で取り残された。その結果、堕天使たちは、人間のアストラル体に浸透できるが、人間の自我には浸透できない。

 堕天使たちは、異常な状況にあり、それらは、多少学者ぶった存在にも見えるかもしれないが、あくまでリアルな存在ではなく、ただ思考のイメージや知性として表現できるだけの存在である。レムリア進化期における人間のアストラル体を(エーテル体と肉体は無視し)、円で表現すれば、自我は、徐々にアストラル体の円のなかに入っていき、このアストラル体の円内に包み込まれる。

 次に何が起こるのか? 

 レムリア期を通じて、ルシファーの悪の力が、アストラル体の、あらゆる側から忍び込んで来て、その悪の力は、悪の活動を通して、人間に浸透してきた。ルシファーの悪の力は、人間においては、低級な熱情として表現される。人間が間違いや悪を犯す可能性は、アストラル体に浸透し、情緒として組み込まれた。つまり、ルシファーの悪の精神が、悪の可能性を、人間に導入した。

 もし、ルシファーの悪の精神が、人間のアストラル体に導入されなかったなら、人間は決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかっただろう。代わりに、妨害的な影響を受けない自我を受け入れた天上の領域へと上昇していただろう。そのような楽園で、人類の偉大なヒエラルキアの高次の指導者たちは、人間が、あまりに(ネガティヴな物質性へと)深く下降してしまわないように守っただろう。

 だからこそ、キリストの救済が起こる必要が生じた。キリストを自主的に受け入れた人を取り上げてみる(勿論、キリスト教はいまだ初期段階にあるが、理想的状況を取り上げる)。つまり、人間の自我が、完全な自由意志によって、キリストの力を、自分の中に浸透させた、と考えてみる。

 自我が進歩してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファーの力による行いにも浸透する。そのとき、未来においては何が起こるのか? 

 キリストの救済によって(その自力による救済によってのみ)、我々はルシファーから進み出る、アストラル体のなかの、あの悪の性質を打ち消せるようになり、同時に、そのルシファーの力から、自らを徐々に解放できるようになる。ルシファーの力により、人間の自由のために、進化から逸脱する、低次の物質段階へと下降していかなければならなかったが、そのため、地上ではキリストの力を経験できなかった。

 そのルシファーの力が、人間を通して、キリストの力を経験し、救済されるときが来る。人間は、もし、適切な形で、キリストの力を受け入れるなら、ルシファーの救済にもなる。その結果、人間は、そのルシファーの妨害の力を受け入れなかった場合と比べて、より自我の自主性により、善へと向かい、強くなっているだろう。

 もし、人間がルシファーの力を受けなかったら、どうなっていただろうか?

 キリストの力は流れ込んでいたが、ルシファーの妨害には出くわさなかっただろう。我々は、この悪の相殺力を一度は、自主的に自分の善から克服したことで、現在、それが可能となった程度にまで、善による、真理、叡智にまで、進化できた。

 人間もまた、ヒエラルキア(天使)存在の1つだが、上位の他の存在とは異なっている。つまり、セラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)、キュリオテテス(主天使、叡智の霊)、デュナミス(力天使、運動霊)、そしてエクスシアイ(能天子、形態霊)、アルヒャイ(権天使、人格霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)、そして、アンゲロイ(天使、薄明の霊)の一部とも異なっている。

 未来を遥かに仰ぎみて、人間は次のように言う。

 「私は、自らの行為への意志=責任を、内的な自我の最奥にまで追求するように求められている。例えばセラフィームのように、神の命令からではなく、自身の内的な自我存在から行う」と。

 キリストは、衝動や情緒など、なかば強制的に従わせるような形で、功利的で打算的に、受動的に働く神ではない。人間がキリストに従うのは、ただ本人の理解と自由から行うだけである。キリストとは、多様な方向に進化しようとする、自由で個別的な自我を、決して妨げない神である。

 キリストは言葉の最も深い意味で、次のように言う。

 「汝は真実を知るだろう。そして、真実は、汝を自由にするだろう」と。

 そして、ヒエラルキアに属する、悪を行う可能性のあるルシファーの堕天使存在たちは、人間の善の力によって、再び救済され、善なる自由にされるだろう。

 このように、宇宙の進化は単なる繰り返しではないのがわかる。新しい要素が入ってくる。人類が経験するような人間の段階は、以前の天使、大天使、或いは権天使の間で見られたのと同じではない。

 人類は、宇宙のなかで成就すべき、全く新しい使命、今記述したような使命をもっている。人類が、地球に降りて来たのは、この使命を達成するためである。キリストは人類の自由な救済者としてやって来た。上から働きかける神ではなく、多くの存在のなかに、最初に生まれた存在としてやって来た。

 宇宙のヒエラルキアの構成員としての、人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのは、霊視で、このように読み解く方法だけである。高次のヒエラルキア存在たちの、高貴な本性と栄光を見上げて、人間は、次のように言えるだろう。

 「これらのヒエラルキア存在たちが、いかに力強く、賢明で、善なる存在(真の道から外れない)だとしても、宇宙に自由をもたらし、そして、自由とともに、真の言葉の意味において、愛と呼ぶものをもたらす、のが人類の偉大な使命なのである」、と。

 というのも、自由なしには愛の存立は不可能だからである。ヒエラルキアの上位の命令に、どうしても従わざるをえない天使たちは従うしかないが、反逆が可能な天使にとって、それを可能にする唯一の力がある。その力が愛なのである。自由と愛は相互に属する2つの極なのである。

 もし、愛が我々の世界に入ってくれば、上位の命令以外の方法が可能になるのは、自由により、つまり、ルシファーとルシファーに打ち勝つ者(その者はまた人間を救済する者でもある)、つまりキリストの愛の救済力によるものだけである。

 地球が愛と自由の宇宙である、というのは、この理由によるが、重要なのは、人類を、謙遜として、神から遠ざけるのではなく、西洋の秘教においては、絶えず継承されてきたような一連のヒエラルキア存在たちの神意を理解することである。

 セラフィーム、ケルビーム、そしてトローネは神の眼差しの下で伝達される直接的な衝動に従う。キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイは、高次の力に非常に密接に結ばれているため、人間の更なる障害を超えた進化を可能にする反逆命令を受け取らなければならない。

 大天使や人格霊でさえ、間違いを犯し、自らの自由な決意から悪に陥ることもない。人間の直上に位置するヒエラルキア存在たちは、天使という、いわば神の伝達者、もしくは大伝達者の意味で呼ばれるが、それは、天使たちが、自分で仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を遂行するだけの存在を示している。

 一方、人間は自身で仕事を遂行するように、徐々に成熟し、進化していくヒエラルキア存在なのである。木星紀、金星紀、そしてヴルカン星紀の進化を通じて、人類は自我の自由な愛の成就に向けて、徐々に成熟していくだろう。今日、この目標は、いまだ遙かに遠いものとはいえ、いつか人類は、その目標を達成するだろう。

 では一体、ヒエラルキアとは何なのか? 

 セラフィーム、ケルビーム、トローネから始める。神から受け取った命令の遂行によって、その権威を行使する。次の位階の、デュナミス(運動霊)は、上方から受け取った命令に従う。そして、それはエクスシアイ(形態霊)にも当てはまる。もし、それらの天使たちが、悪の存在になるなら、神界の決定の結果として、悪の存在になるに過ぎない。

 そして、次に、人間のすぐ側まで降りてくる権天使(人格霊)、大いなる御使い(大天使)、そして御使い(天使)へと至る。人間は、どのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのか? 

 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いて、ヒエラルキアの位階に置かれるべきなのは、「自由の霊」、もしくは「愛の霊」とでも呼べるような存在である。上から下に数えるなら、この存在は「10番目のヒエラルキア(天使)」である。

 この「10番目のヒエラルキア(天使)」はいまだ発達途上だが、にも関わらず、霊的なヒエラルキアに属している。宇宙では、単なる繰り返しが行われるだけではない。1つの周期が完結する度に、新しい要素が宇宙進化の中に導入される。そして、その新しい要素を組み込むのは、常に人間の進化段階にあるヒエラルキア存在の仕事なのである。

 今回の講義では、人間の意味と重要性を、宇宙の意義から考察することによって、推し量ろうとしてきた。今日、少なくとも、ある程度、人間存在の意義に関する精神的な質問を投げかけた。そして、秘儀の教えに従って、宇宙の中心点としての人間存在の重要性を確立しようと努めてきた。

 この人間存在を確立するなかで、宇宙のヒエラルキア構造の大円の中心の謎、つまり人間の謎を円の周辺から解明しようとした。円周の観点から点の謎を解こうとした!

 円周から中心点の謎を解く事で、我々の叡智を、現実の物質領域に配し、創造できる。これが、つまり、真の人智学の叡智が、物質界では、具体的な知識となり得る、という本質的な、人間の中心点でもある。言い換えれば、人智学的知識自体が、宇宙と精神的なヒエラルキアの像を直接創り、円とその中心点にある人類として描き出す。

 我々人間は、宇宙の中心にいる。

 人間の周囲にある物質界全ては、宇宙の意義を失わせるが、それは、人間の感覚による、知覚可能な外界から、人間が直面する謎を解けないからである。

 それは、ただ、まるで、あらゆる物質が1つの点に濃縮されるかのようである。

 しかし、全てが、中心という一点に圧縮するとき、宇宙の謎についての答えが、物質と同様に、力強く現実の存在として、そして、それは精神的存在の反映にすぎないが、そのような叡智がイメージとして、一点で物質と共に消滅し、宇宙の大円周から、新しい要素として、再び蘇ってくる。

 物質は、物質自体が互いに寄せ集まり、中心点で消え去ると同時に、新しい世界の周辺において再び現れる。

 これが真実である。

 我々の知識が現実となるのは、それが宇宙全体の構造として、もしくはその進化過程(プロセス)として、我々の目の前で、その歩みを進めるときである。そのような知識が、もはや思いつきが形になったもの(空想的な理論の織物)ではない。

 というのも、そのような知識は宇宙から生まれてくるからで、我々人類が発達させるべき感情とは、上記のような、自由と愛だからである。

 叡智は、我々の理想になるべきである。それは宇宙の周辺から生まれて、大いなる力で、つまり、我々が、自身の運命を成就し、自身の宇宙的な理想を達成するのを可能にするような力で、我々を満たせる叡智である。この愛と自由による叡智の力があれば、未来に、我々を待ち受ける人類の理想を現実にするのもまた可能となるだろう。





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Last updated  2023年12月30日 23時55分09秒
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